蟹江 篤子(ラジオパーソナリティ)

1949年 愛知県出身。

元東海ラジオアナウンサー。

現在の出演番組は「かにタク言ったもん勝ち」(東海ラジオ、金曜日 9時00分―1200分)

上記の番組では1997年放送当初からレギュラーとして出演されており、明朗快活な蟹江篤子さんと、同じくレギュラーのタクマさんと繰り広げるまじめなコミックショー調トークワイドとして人気を博している。


――20歳当時は大学に通っておられたと思いますが、どのような日常を送っておられたのですか?

南山大学に通っていたので、田舎から山手通りまで9時の授業に間に合うように行くには

えらい覚悟で家を出ないといけなかったんですよ。東海市から通っていたので。大変でした

ね。バスの路線も今とちょっと違っていたし、地下鉄もないし。どうやって通っていたのか記憶がないくらい。金山から多分名古屋大学行きっていうバスに乗って、それで山手通り何丁目かで降りるっていうやつじゃないかな。坂道をえっこえっこと登って。通ってたんですよ。それで、学校は大好きだったし、クラブも好きだったので、ほぼ毎日大学行ってましたね。

 

――クラブは何をやってらっしゃったんですか?

私は掛け持ちしていて、一つは混声合唱。もう一つは野外宗教劇と言ってましたけど、受難劇をやるグループと二股かけてましたね。で、やっぱりミッションスクールなのでキリストの受難劇っていうのを、私が入った頃は、まだ6回目、7回目ぐらいだったんだけど、キャンパスを使って、外にほんとに十字架を立ててね。私たちの同好会の人数だけでは足りないので、自転車部、テニス部、なんやらかんやら色んな所で群衆の役を募ってみんなでワーッとやるのが好きだったので。

 

――楽しそうですね。

うん。歌ってるか、発声練習とか他の芝居の何かをやってるか、授業には出なくても学校には行ってましたね。

 

――当時から声を出して行う活動が好きだったのですか?

それはね、高校の時も音楽部だったので歌をやってたんですよ。だからそのまま声を出すクラブ活動に入ったんだけどね。急に体育会系に変わるってことは有り得ないね。運動は身体に悪いと当時から思っていたので(笑)。だから楽しく学校生活は送ってましたよ。

 

――クラブ活動以外で印象に残ったことはありますか?

あれは二十歳の時だったと思うんですけど、海外研修旅行というのを2年目ぐらいに参加したんです。夏休みの二ヶ月使っちゃって、イギリス班・ドイツ班・フランス班・イスパニア班もあったかな、主にスペイン語をやってる子はイスパニア班でなるべくスペインで民宿したり、旅行も半分、ドイツ班だとドイツ語を専攻してる子たちがドイツを中心に回るというかんじで、研修旅行って言ってましたけど、ほとんど観光旅行だったけど、その二ヶ月の旅行は楽しかったですね。

 

――さすがミッションスクールですね。

それは、一人の神父様が提唱したんだけどね。私もその神父様の運転でアウトバーンに乗って。運転したくてしょうが無い神父さんだったので。ドイツの人なんだけど、生まれた所がフランスに近いもんだからフランス語もできて、フランス語の先生をしていたんだよね。それで名前がシューベルトって言うんですよ。その神父様が運転して私たちを白い大きいバンに乗せて、アウトバーンは制限速度がないからね、好きなだけ飛ばせるので、すごく怖い思いをしました(笑)。それはやっぱり南山だな、と思う出来事ですよね。

外国旅行は恋と一緒で、一度も恋をしたことがない人がいるかもしれないけども、一度しか恋をしなかった人はいないだろうっていうくらい海外旅行も一遍では済まんという話ですわ。

 

――なるほど。他には何かありますか?

ちょうど海外研修から帰って来たとき、学生運動がそろそろ終焉という時期だったんだけど、なんか南山もバリケードがどうとかこうとか話が入ってきて、学校が封鎖されちゃったらどうなるのって思ってましたね。まあたいしたこと無くて、南山の子だから割とのんびりしててあんまり騒動にはならなかったね。私は全くそういうものには興味が無かったし、それから私たちがやっていた野外劇は芝居の前になると、何月何日にやりますっていう3メートル、5メートルくらいの看板を立てるんですけど、その時に字を書くのが、反帝学評という学生グループでね。その子達が字が上手だったので、頼むで書いてと言ったら、「えーよー」って書いてくれた。そんな和気藹々としたかんじでした。

 

――グループ名は過激な感じですが・・・。

色んなグループがあったんですよ。その頃の学生運動のグループは。東京はもっと激しかったけれども、やっぱり名古屋はのほほんとしてた。それで、今は知多半島に行ってしまった日本福祉大学、日福は激しかったね。

 

――学校にもよるものなんですね。

学校にもよります。

 

――それは校風にも関係しているんでしょうか?

南山の子はのほほんとしていて、あんまりそういう意識を持ってなかったね。

 

――それは(南山が)国際的だからでしょうか?視野が広いというか・・・。

そういうわけではなくて。視野が狭いかもしれない。政府がどんなことしようがあんまり関係ないというぐらいの感覚で。その安保っていうのは、60年の安保が凄かったんですけど、もうすっかり私たちは腑抜けだったので。一生懸命やってる子はいたけど、そんなことよりちゃんと単位をとって卒業のころには就職先を決めないといけないなと思ってたので、下手に学生運動をやってると評価が悪くなっちゃうし、先生の覚えもめでたくないので。そんなことなら、楽しくクラブ活動をやろうというふうに割り切ってましたね。

 

――現実的な考えをお持ちだったんですね。

つまり、家で遊んでいられない。友達にはお嬢さんもたくさんいたので、大学を出ても就職する気の無い子もいっぱいいたわけ。勿体ないでしょ、頭良いのに。卒業と同時に結婚しちゃった子達もいるんだけど、私の家はそういうふうに遊んではいられないということだったので、必ず独立してくださいと。一人で喰っていけるだけの就職先を見つけなさいってことだったので、二十歳になったらそういうことをちょっとずつ考えてたよね。

 

――学習もしっかりやられて、クラブ活動と両立なさっていたんですね。

いや、卒業したときの単位は最低単位の2単位プラスだけだった。卒業は資格があったけど、たくさん稼いだわけではない。でも、上手にAとかA+をとっていた。それで、NHKの試験を学内で3人しか受けられなかったんだけど、就職課に日参して受けさしてくれと受けさしてくれと頼んだら、その熱心さに就職課が負けてしょうがないなって。もっと成績の良い子はいたけど、あんたも受けてみやあって。NHK3人受けたけど、試験問題の冊子が何センチってぐらいあって、ペーパーテストだけでね。辞書持ち込み可。でも引いとるようでは遅い。英語でも何でもバッと出来ないともう駄目で、手も足も、というかんじでしたね。まあ経験だけはね。3人受けた中で誰も受かってないからね。当時は地方出身者がNHKに入るのが難しかったんですよ。親子三代東京に住んでないと、アクセントの問題がクリア出来ないと言われていて。今は違いますけどね。だから試験も大変だったし、しゃかりきだったのよ、みんなが。

 

――わかりました。次に、当時影響を受けた存在などありますでしょうか?

私あんまり人に感化されることないからねぇ。ゼミの先生は好きでしたけどね。イズミ先生といって母と同じくらいの歳のおばさん先生だったんだけど、心理学やってる先生で、授業が面白かったから、いつも大きい教室の一番前に座って授業受けてましたね。その先生は好きだったから、影響を受けたとすればその人かな。

 

――自分をしっかり持っていらっしゃったんですね。

いや、そうじゃなくて。感動しなかったわけじゃないけど、それよりも同級生に格好良いと思う子がいたりね。私はずっと南山に行ってたので、女子校な訳ですよ。そのなかで、勉強も出来て生徒会活動もしっかりできてっていう格好いい子がいましたよね。早死にしちゃったけどね、そいつ。でもだからといって、その子の様になるとか真似るとか、そういうことはしない。

 

――憧れをもっていたということなんでしょうか?

憧れっていうか、尊敬だね。偉いやっちゃなと思って。勉強も出来るし、堂々としてて。その時に今から思えば、家族や周りの人にいつも可愛がられて育ってきた子は、あんまり人を疑わないのね。周りに悪いやつがいないの。だから人をよく信じて、信じすぎて騙されるっていうのがあるかもしれないけど、なんかちょっと嫌な思いを何回か経験してると、人を疑いたくなるというか、それは本心で言っているのか、お上手を言ってるんじゃないかとか、あるいは人が本気で褒めてるのに、疑わしい気持ちで聞いちゃうとかね。そういうことがなわけ。いいお嬢さんで育った子は。その大らかさが、お嬢は違うなと思ったことがありましたね。今でもそれはあって、大人になってもそういう子達って、人を疑わなさすぎて騙されていく子がいる。ほんとは大人になったら自分で修正していかなきゃいけない。けど、自分が騙されやすいタイプだってことにまだ気がつかない子もいるからね。あんまり疑っては駄目だけれども、信じすぎるのもよろしくない。その部分と、人は色んな経験をしてきてるんだから、その人の心の奥は分からないよっていうことなんだよね。どんなに仲良く付き合っていても、全部知ってるわけじゃないからね。あなたが言いたくないことがあるように、自分にも言いたくないことがあるわけで。それを承知のうえで、でも仲良しっていうのが良いよなということを高校時代に何となく悟りましたね。

 

――当時を振り返って、悔しかったことや失敗したと思われた経験があれば教えてください。

失敗したというか、その時はそれしか出来なかったんだから。ある意味もっと勉強しておけ

ば良かったとは思うけど。つまり就職してから、歴史にしても化学にしても、こういう仕事をしていると覚えたことがスッと口からでないと駄目なので、勉強してないと覚えてないでしょ。何年頃だとさ、コロンブスがどうこうした頃だよね、みたいなね。いちいち全部言わなくてもいいけれど、立体的に捉えられると違ってくるから。

日本語、国語の古典も現代文も文法もほんとにこの放送という仕事についてはもの凄く重要。文法なんてのは、何々しけりもあれば、色々ある訳よ。古い文豪ものなんかも読まないといけないことがある。そういう時に、書いた人があるいはワープロなんかを打ったにしても、「れ」と「け」を間違えるとか、文法上これ変じゃない?ということも出てくるわけ。気がつけばいいけど、気がつかないと間違った言葉のまま読んでしまう。それは現代文でもあることなので、その時に変だと思わずに、100%正しいものが来るんだというふうに信じてしまって読むとドツボに嵌まることがある。最終のチェック門だから、読む人が。それまで何人かの手を経て来るんだけど、最終はチェックしないといけない。

 

――つまり、自分の能力が問われるんですね。

問われるんですよ。やっぱりそれは、日本語だけじゃなくて、例えばお料理の話をするっていう時でも、そこに如何してそういう料理法がいいのかっていう科学的な面があるわけじゃん。世の中は色んなことを知ってるほうが、楽しいしやり易いよね。だからもっと基礎的な勉強をやっておくべきだったと思う。それはもう、中学も高校も大学にいくとちょっと専門的になりすぎるので別ですけど。その時はなんでこんな数学なんて、とかね。思ったんですよ。でも出来たほうがいいですよ。

 

――身に染みます・・・。では、少しだけ20歳ということから外れてしまうんですが、何故アナウンサーになろうと思われたんですか?

アナウンサーになろうと思った訳じゃ無くて。就職先が欲しかった。就職先っていうなかで、

私が自分で生意気に考えていたのは、もう制服を着なくてもいいこと。つまり、事務服とか制服がある仕事は嫌だった。それから、男女同賃金をちゃんと出しましょうという会社であること。基本姿勢として。3つ目は、一日中沈黙を強いられない。事務服着て、黙ってそろばん弾いてるような仕事は私には向かないっていうことが判っていたので。そうすると、航空会社か外資系の会社か、、、なかなか無いんですよ。とりあえず男女同賃金を謳ってるのって、その当時はね。で、外資系は駄目だし、スッチーも駄目だし、あと残ったのが放送局だったんですよ。まあ男女同賃金を謳ってる会社が大分増えてきていたので、受けてみたら此処しか残らんかったんですけど。そういうことだったんですよね。生意気だっていうかんじなんだけどね。何処でも良いじゃ無いかという人達もいたけど、私は嫌だった。偶然残ったんですよ、NHKは駄目だったけど。此処だけ残った。此処だけって言うか二つしか受けてないから、確立としては半分だったんだけどね。でもその時1700人受けてたから、東海ラジオだけでも。そのうちの5人に入ったんですよ、アナウンサーだけでね。他の事務系に入った人もいるんだけど、なんせ人間の数が多い時なので、兎に角チビの頃から自然と競争だったわけ。だから、アナウンサーになりたいというより、条件が整った会社に就職したいという。

で、放送部をやってたわけじゃないので、声は出してましたけど。腹式呼吸とか腹筋使うこととか、一息で長く喋るとか、そういうことは歌でもやってたから出来るんだけど、野外宗教劇のやり過ぎで、どうもこうマイナーだったらしいわ。短調、わかります?メジャーとマイナーで、長調と短調でいうと短調だったんです。私の読み方はドミソドじゃなくてラドミラあるいはレミファミレぐらいで。もう貴女が読むとどうしてか知らないけど、重―くなってくるんだけど、って。理由がわからない。

 

――矯正などなされたんですか?

いや、それはもう毎日練習があるわけじゃん。新入社員になったら。一日中ものを読んだり、ちょっとニュース原稿を書いてみたり。そういうなかである日、土曜日に授業というか研修あったんだけどね。お昼ご飯にカレーライスを食べて、食堂で。午後の研修に入ったら、直ってたっていう。カレーライスのおかげで変わっちゃたっていうね。そしたら皆が「あの読みが懐かしいから、もう一回あの暗い読みをやって」って言うんだけど、もう出来ない。パッと変わったの、昼ご飯で。で、テープに音を入れて聞くって言うのを私は高校の時にも遊びで親戚の家で、自分の声吹き込んで、こんな声じゃ無いって騒いだことあるんだけど、大学の時にもこんな声じゃないわって、いやそれあんたの声だよって言われて。まだ慣れないのね、自分の声に。それで、此処で研修を受けると、いちいち録音して聞くわけ。こんな読みしてたの?って。人との違いが如実に判るわけ、初めて。

その時どうやったら変えられるかなっていうのともう一つは、ある意味、あの子上手だけどこっちは私の方が上手だなって思ってましたね。人が皆、私よりすべて上手い訳じゃ無いって。でも、私はここに関しては、この子より私の方が上手いって思ってる間は駄目で。結局、そういう風に思いたいと思ってるけども、実際には何回も何回も練習させられて。人よりも倍ぐらい、もう一回読み直しっていうのをさせられて、、、あ、思い出したな。

手のひらと足の裏にボロボロが出来たの。顔にもボロが出たの。それはね今から思えばわかるけど、汗ですよ、緊張の。緊張の汗で水膨れがいっぱい出来て痒いの。で、足も痒いの。テーブルの上で手を掻くと、「蟹江くん、ごそごそしない」とか言われて。要は緊張の汗だった。で、イライラしてるから、顔もボロが出てたりなんかして。そういう症状が出た子が他にもいたけど、医者に言ったら、その会社を辞めたら治るねって。入ったばっかりで辞める訳にはいかないから。

それで研修の時に、自分が出来ないんだということを認めざるを得なかったね。で、皆デビューは早いわけ。番組貰って、出て行って、私なんかほんとに三年くらい鳴かず飛ばずじゃ無いけど、ずっと裏方の仕事をしていて。華やかなデビューは、なかなか出来ませんでしたよね。それでもめげなかったんですよ、私。全然めげなくて、先輩のラジオを聞いてメモしてました。あの言い回しはこういう風のがいいんじゃないかとか、暇だから。いつも美味しいお茶が飲めるように準備したり、流しの掃除をしたり。まあいいやと思って。これで給料貰ってるんだから、なんか働かなくちゃなと思って。薬缶磨いたりしてましたよ。それで磨いたら、昔ながらのアルミの薬缶にバラの模様が出てきて、こいつバラの模様がついとった!びっくりだわって言うて。今から思えばもう、笑い話。

 

――やろうと思って進んでやっておられたんですね。

うん。嫌々やったりはしてなかった。

それでその時に、やっぱりオウム返しって良くないなっていうのを、人のを聞きながら勉強していったのよ。つまり「空が青いですね」「青いですね」っていうオウム返しは、能が無いなと思って。「空が青いですね」って誰かが言ったら、「ああいう青さをなんて言うんでしょうね」って。「青にも色々あるけれども、なんとかブルーかな」っていうふうに話がいけば、広がるけれども。オウム返しをするのは駄目だと思って。

ただ女性は、アシスタントってことが多かったわけ。二人で番組やるにしても。MCと言われる中心は男がやって、女性はアシスタントっていうことが多かった。それはそれでいい。だけど、あの子がアシスタントに就いたら話が広がるねっていうふうに持っていきたいわけ。素直ではいはい言うけれど、イエスマンとしてついてるだけなら誰でも出来る。それこそオウムでも出来る。そうじゃなくて、あの人と仕事をしたらどんどん話が面白く広がっていく、進んでいくっていうふうになりたいな、と思っていたのね。人のを聞きながらね。あ、そういう返事すると話がそこで終わるだろう、と思って聞いてました。話を終わらせない。あるいは話を落ち着けてレコードにいきましょうという時には、オチをつけなきゃいけない、ある意味。そしたら、早く綺麗にポンと収まるということを考えながら仕事をしなくちゃいけない。だからその綺麗に見せようとか、そういう気持ちがないわけじゃ無いけど、それよりも、まあラジオだから。話の展開を面白くしたいと思ってましたね。

でも兎に角理屈を捏ねるから、誰があいつを採ったんだって言っとったらしいわ。黙ってハイって言うこと聞かないから。どんどん言うから、自分の意見を。そういう所が、大人しくないっていうの?でも、そういった教育を受けてないのよ私達は。

その南山の女子部っていう所の、運動会の看板とか飾り物も全部自分達でトンカチトンカチやりーの、男の子にやってって言うことが無い。だからそのまま大学に行って、南山女子部の出身者は、男を男だと思って無いって言うか、立てない。それが如何したのというかんじで。だけど、共学から来た子達は、女の子が一歩下がるのね。男を立てるっていうのがわからんもん、私たちは。逆に女子校から来た女の子達は、すぐ恋におちておかしくなっちゃう子もいた。恋におちなくても、ほんとに綺麗に女になってっちゃう子もいた。女っぽくなっていった子と、何時までたってもなれなかった人間と二つに分かれて。私は、自立すべしというのが頭のなかにあったもんだから、頼ってるばっかりじゃ駄目だろうと。でもそれを、あんなやつは使いたくないと言うディレクターもいれば、そういうやつこそ使いたいって言ってくれるディレクターもいるので。だからなんとかまわって、定年までおった訳ですよ。まあそれは二十歳の頃の話じゃないけどね。

でもそういうのは、若い頃から培ってきたっていうか、なんとなく育ってきちゃったものだから、こうなりたいなという気持ちもあるけれども、本当は何をやっていいかが分からない。分からないまま、でもこれが良いなと思った道を進んできた訳だから。今日は映画観て帰るか、それとも真っ直ぐ家に帰るかっていう時に、もう疲れちゃったから家帰ろうっていうのも一つの選択じゃん。誰かさんから誘われて、「あんまり好きじゃないなぁこいつ。だから、ひょっとしたら良い仕事をくれる気があるかも知れないけど、やっぱり時間が勿体ないな。」と思ったりすると、そういう人に誘われても、「すみません今日用事があるんです。」って誘いには乗らない。そうやって一つの仕事を逃したかも知れないけど、いいんだ。それは、私が選んだんだから。

あの、杉村春子さんっていう大女優さんで、もうずいぶん前に亡くなった人が、“私が選んだ道だから“っていう。その女優という仕事をやってきて、色んな辛いことも苦しいことも悲しいこともあったんだろうけど、でも私が選んだ道だからっていうのがね。永六輔さんがまとめた名語録の中に多分入ってるのよ。それで、永六輔さんの本の中に幾つか出てきた俳優さん達の言葉には、随分と励まされたというか、、、。まだご存命だと思うけど、ある女優さんが“女優はね、不幸であってもいいと思うの”っていうのがあるの。自分の人生が例え世間から見たら不幸だと思われるような人生でも、それはみんな芸の肥やしになるって。色んな演技の為には、“女優は不幸であってもいいと思うの”っていう台詞があってね。それをよく同期で「アナウンサーは不幸であってもいいと思うの」って、ちょっと違うかも知れないけど、そんなこと言いながらその人達の言葉に励まされて。でも杉村春子さんの“私が選んだ道だから”っていう女優一筋で行くぞ!だけじゃなくて、辞めようかしらもあったかも知れないけども、いいお話もあったかも知れない。それは知らないけど、でもやっぱりこっちを選ぼうと思って、みんな自分が選択してきた道なんだから、あの時のことを振り返って、しまったしまったといってもしょうが無いのよ。と納得してくると、自分が不幸じゃなくなるの。しまったと思ってると、自分が選んだのに人のせいにしたくなったりして、もっと不幸だよね。今あるのは、私がその様に歩いてきたから今があるのであって。これ以外の道は無かったんだ、ということを仕事をし始めて色んなものにぶつかった時に納得したね。

あと、大好きだったゼミの先生が、もう会社に入ってからボロはできるし、意味も分からず。もうやっとれんって相談に行った時に、カトリックの信者だからその先生は「貴女ね、神様は貴女に乗り越えられない試練は与えない。それは必ず乗り越えられるから、今それに直面してるんだけど、絶対大丈夫。乗り越えられる。そういうものなの。」って言われて。ああそうか、これは乗り越えられるんだって励まされて。それでほんとに此処まで来たのね。あともう一つはなんだろう、、、出世しなくちゃとかそういう気持ちが無いので、ラジオを聞いてるお客さんに面白いねとか良いふうに言って貰いたいなと思って、そういった努力をしてきたというかんじです。

あ、もう時間やね。

 

――お時間をとっていただき、ありがとうございました。