神永 学(作家)

一九七四年、山梨県出身。映画監督を目指すが家庭の事情で断念。

その後、一般企業でサラリーマンとして働きながら、執筆活動を始め、様々な賞に応募するも受賞には至らなかった。小説を執筆してきた記念として「赤い隻眼」を自費出版。これが編集者の目に留まり、二〇〇四年に同作を大幅改稿した「心霊探偵八雲 赤い瞳は知っている」でプロデビューを果たす。

 

――まず、二十歳の頃の生活状況について教えて下さい。

 

 二十歳の頃は、日本映画学校という所に通っていました。今年(二〇一三年)から日本映画大学という名前に変わりましたが、当時は三年制の専門学校でした。

私が専攻していたのは、演出ゼミ。映画監督になりたくて映画の勉強をしていました。地元山梨から上京して……二年目くらいの時ですね。

 生活状況は、貧乏だったかな(笑)。あまりにもお金が無くて、クラスの男子で集まって、みんなで食材を持ち寄って分け合ったりして、協力しながらご飯を食べていました。今より二十キロ以上痩せていました (笑)。

映画学校は、実習が入ると一、二ヶ月、朝から晩まで全部のスケジュールを実習に取られてしまうのでバイトがなかなかやりづらくて……だからバイトっていうと、お歳暮やお中元の時期の宅配とか……そういう単発のものをやりながら、食いつないで学校に通っていました。

 

――学校ではどんな風に過ごされていたんですか?

 

当時は、これでもか!っていうくらい叩きのめされていた時期でした(笑)。自分が一番映画を知っている!と意気揚々と学校に入学したけれど、自分よりすごい先輩たちがいっぱいいて……とてもじゃないけどこの人たちに追いつけない。そう気がついて、挫折を味わいました。

シナリオを書く授業で、講師に「キャラクターがダメ、ストーリーがダメ、人間が描けてない。評価できるのは真面目な姿勢のみ」ってボロカスに言われ……他の講師からも「演出のセンスが無い、想像力も足りない」なんて言われて、けちょんけちょんにされていました。「これはもう無理だ……」と思って映画監督を諦めた時期です。

とは言うものの、せっかく入った学校で何もせず、全て諦めてしまうというのも良くないので、演出とか監督を諦めて、制作という分野に力を入れました。そこで何とか自分の居場所を見つけようともがいて……とても辛かったなあ。

 

――それは大変でしたね。

 

 そうですね。でも「制作」という仕事に出会って、探していた自分の居場所を見つけられました。

キャスティングやスケジュール、お金の管理をして、学生課でやり取りして……ということを率先してやって。制作ってそういう裏方仕事なので、みんなやりたがらないんですよ。表に一切出てこないですしね。最終的に重宝される存在になれました(笑)。

 

――当時、一番辛かったことは何ですか?

 

 自分がいかに無力であるかを認めなきゃいけない瞬間かな。

人は、その瞬間に直面した時に、理由を外に求めて自分を守ろうとするけれど、それをしてしまうと絶対に伸びない。自分の無力を認め、そこからまた頑張れた人だけが成長できる。分かっていても難しいことですよね。

自分には能力があって、人より優れていると思っていたのに、本当は無力で、他の人と何も変わらない。若さゆえの驕りってやつかな。それを認めて受け入れるのが当時は一番辛かったです。

 

――それで、映画じゃなくて小説の道に?

 

そうですね。自分の居場所を作りたくて制作を頑張った結果、卒業する頃には「制作はアイツに任せておけば大丈夫」と言われるくらい、信頼してもらえるようになりましたし、卒業時には優秀賞をもらい、自分の中である程度の結果を残せました。

就職先も教務課から「好きなところを選んで良いぞ」と言われていました。でもその頃は、自分の力を試してみたいと思っていて。「厳しいところに行って自分を試してみたい」と言って、紹介されて入社した制作会社は、厳しさの意味が違いました(笑)。休みはほぼ無く、月収も九万円で交通費も出ない。家賃、定期、光熱費を払うと使い切ってしまう訳です。食費の出所がないですよね(笑)。結局、生活が成り立たなくて辞めざるを得ませんでした。

せっかく親にお金を出してもらって専門学校に通って、監督の夢叶わず。制作に移り、その制作も途中で断念。何も残らないことが辛くて……何か意地を見せたかった。

映画作りは、集団作業ですよね?そこで、集団作業じゃないものって何だろう。誰にも迷惑かけずに一人で目指せるものって何だろうと考えたら、シナリオと小説が思い浮かびました。ですが、シナリオは、私は一度心を折られています (笑)。なので、これは無理だと。

じゃあ、形だけでも良いから小説を書いてみようというところから、小説を書くことをスタートさせました。

 

――そこからどのようにして小説家になったんですか?

 

 最初の頃は、フリーターでアルバイトをしながら小説を書いていました。ただ、将来自分が小説で成功するとは一ミリも思っていなかったので、これでは将来まずいなと思い、途中で普通に就職試験を受けて、一般企業で働き、家に帰ったら原稿を書くという生活をしていました。

サラリーマンをやりながら小説を書き、賞に応募しては落選というのをずっと続けていましたね。賞に応募しても一個も通らなくて、二次先行通過が最高かな?「心霊探偵八雲」も実は賞応募して一次選考で落選しているんですよ。

二十八、九歳ぐらいの時に当時お付き合いしていた方と、そろそろ結婚という話が上がりました。いろいろ頑張ったけどダメだった。そろそろ普通の生活をするのも別に悪くないか……と思ったんです。

ですが、小説を今まで書いてきたけど、何も残っていないことに気がつきました。そこで一応形だけでも残したいと思い、自費出版で本を出したんです。それが「赤い隻眼」。「心霊探偵八雲」の前段階の作品です。

 

――プロデビューするまでにはどのように?

 

漫画みたいな話ですが、「赤い隻眼」を自費出版し、普通にサラリーマンとして生活していたある日、私の携帯に電話がかかってきました。文芸社の編集部長を名乗る方からの電話で「ちょっと君と話したい事がある」と言われて、驚きながら「いつですか?」と訊いたら「なるだけ早く、出来れば今日」と言われました。「仕事終わった後なら……」と言ったところ「それで構わない、待っているから」と言われて、八時から九時ぐらいに文芸社さんに向かいました。着いたら、電話をかけてきた編集部長と、財務部長だったかな?が、二人で待っていて「君の作品をリニューアルして新人売り出しプロジェクトにかけたい」と言われました。「ただその代わり、原稿を一週間以内に書き直してください」と続けられて、「それっていつまでにお返事すれば良いですか?」と訊いたら「今」と……。そこで「やります」と言っちゃったんですよね(笑)。そこからは、目まぐるしかったなあ。仕事やりながら原稿書いて……それで今に至ります。本当に激流のようでした(笑)。

 

――「小説を書く」ということの魅力は何ですか?

 

 映画には映像の面白さがありますが、小説は文字だけで表現しなければいけない。文字だけで全部を表現すると、無駄に長い小説になったりする。なので「何を切り取るのか」というところが一つ肝になってきます。

例えば「香月さんを紹介しましょう」という時、映画の場合は、映像を流してしまえば全て伝わります。ですが小説では、黒いスーツを着ていた人と書くのか、おさげの髪をした人と書くのか、眼鏡をかけた人と書くのか……それは小説家に全部委ねられているんです。そこが小説の面白さだという所に気が付き、そんな言葉の魅力にどんどん惹かれていきました。

あとは、小説家という職業が向いていたのかもしれません。小説は一人で書くものですが、あまり孤独を感じないタイプだったので(笑)。

 

――では、執筆する上で一番大事にしている工夫は何ですか?例えば表現の仕方とか伝え方。さっき切り取るってあったんですが、どの部分を切り取るのか。

 

  キャラクターも物語も大事ですが、未だに自分が小説をどう書けば良いのか悩んでいます。ルールが無い世界だから、そこでどう表現していくか、というのもありますし……。

例えば、キャラクターを立体的に魅せようと考えた時に、「心霊探偵八雲」シリーズで言うと、石井雄太郎(刑事)は、後藤和利(刑事。石井の上司)から見たら使えない、臆病な野郎という見方をしています。でも、主人公の斉藤八雲から見ると、意外と信頼がおける人物と見ていたりします。また、土方真琴(事件解決に協力する新聞記者)から見ると、優しい人になっています。同じ一人の人間にしても、人によって見方が違ってきますよね。そこを表現することで中心に立つ人物が立体的になるだけじゃなくて、それぞれの価値観も見えてきたりします。

一人のAさんという人に対して、みんなが同じ感情を抱かないというのが、キャラクターを活かす一つのポイントだと思っています。

現実世界もそうじゃないですか?自分が嫌いだと思う人がいても、他の人から見ると、あの人ってすごく優しいよね!と言っていたり。どちらが本当とか言うんではなく、どちらも本当のその人なんですよね。それぞれ物の見方が違うから、それを優しさと受け取ったり、辛さと受け取ったり、人によってそこは変わってくるものです。

基本的には、私の作品の中ではそれぞれの価値観、物の見方というものを、それぞれの登場人物、相対する登場人物達の間で変えるということで立体感を出すようにしています。

 

物語を進める上では、リーダビリティを大事にしています。これは、ものすごく大事な要素で……。

いわゆる文学作品というのは、少し難しくて、普段あまり本を手に取らない人にとっては敷居が高かったりしますよね?なので、誰にでも読み進められる、読み易さというのを意識しています。

 

――「心霊探偵八雲」を執筆しようとした理由は何ですか?

 

  実は、それまで私が書いていた小説は、恋愛小説やヒューマンドラマだったんです。ですが、賞に応募しても全然通らなくて「もう諦めよう、これが最後の作品だ!」と思い、書こうとした時に、今まで書いたことのないミステリーに挑戦してみようと書いたのが「赤い隻眼」(後の「心霊探偵八雲」)なんです。なので、八雲もどちらかというとミステリー要素より、ヒューマンドラマ要素の方が強く盛り込まれているように思います。

最初は、ただミステリーを普通に書こうと思っても、他の素晴らしい作家さん達の作品との差別化が出来ない。何か違う要素を入れないと……と思った結果、「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」という方がいて。海外の方で日本に帰化した人物なんですけどね。日本の怪談話が好きな人だったんです。彼は、左目が見えなくて、生涯自分の顔の左側を写真に撮らせなかったのですが、ここで「この人は、わざわざ日本に来て怪談話を集めて、何故そんなことをしたんだろう。もしかしたらこの人の左目は、『見えなかった』のではなく、違うものが見えていたのかもしれない」という発想が生まれたんです。それが、そもそものスタートです。もしかしたら左目が他者とは違っていて、だから自分の顔の左側の写真を撮らせなかったんじゃないか……。そういう発想の流れの中から八雲は生まれました。

 

――自分が怪奇現象にあったとかではないんですか?

 

  怪奇現象を体験したことは一度も無いですね。逆に、そんな体験があったら怖くて書けないかな(笑)。今は、事務所を構えて、昼間の時間に書いていますが、デビューした頃は、一人暮らしで夜中に書いていましたから……そこら中に心霊写真集とかを積み上げていて、音もしない中、一人で原稿を書いていて、怪奇現象体験があったら、そこからお風呂に入るとか嫌ですよね?(笑)。

根本的に、トラウマを背負った青年が、人との出会いで変わっていくという人間の心の移り変わりみたいな所を描こうとしていたというのが一番強いです。

 

――趣味はありますか?

 

 趣味は、一番は映画鑑賞です。執筆をする上で映画からヒントを得る事もたくさんあります。

ビデオとかDVDで見るのも良いですが、原稿を書くことが本当に行き詰まった時は、映画館に観に行きます。不思議なもので「チケットを買ってイスに座ってコーラでも飲みながら映画を観る」という行為で、だいぶ気持ちがリフレッシュできるんです。

後はゲームかな。

 

――今までで一番大変だった時期はいつですか?

 

 会社員時代ですね。「サラリーマン」って聞くと、平凡な毎日を思い浮かべがちですが、私は会社員時代に「同じ日」なんて一度もありませんでした(笑)。毎日いろんな事件が起きて、激動の日々でしたよ。

ですが、一般企業に勤めていた時期は、自分の中で一番人間的に鍛えられた時期なので。その大変な時期を乗り越えたから、今の自分があると思っています。

 仕事は、みんな、それぞれ誇りを持ってやっているし、それぞれ大変な事や辛いことを経験して、すごく勉強になりました。

 

――今はどうですか?

 

 今は、自分がやりたくてやっている仕事だし、辛いと思っても、何だかんだ楽しかったりするんですよ。

肉体的に一番辛かったのは、「心霊探偵八雲」デビューの時です。在職中に一週間で原稿を書き直す……これが相当な作業で(笑)。当時は、家と職場を行き来する通勤時間が勿体無くて、仕事を終えたら漫画喫茶に直行して原稿を書く。そのまま椅子で軽く寝て、翌朝出勤。なんてことをやっていましたね。

「心霊探偵八雲」二巻の後書きに「漫画喫茶にて」と書いてあるのはそういうことです。

 

――寝ている時間はやっぱり短かったですか?

 

 その時の一週間は、一時間か二時間くらいでしたね。もうフラフラで……ですが、たった一回のチャンスを無駄にするわけにはいかないですし、死人みたいな顔しながら、なんとか乗り切りました(笑)。

 

――ブログにアイデアが行き詰った時はファンレターを見る、って書いてあったんですが、そうするとアイデアが浮かぶんですか?

 

 そうですね。浮かぶというよりも忘れていたものを思い出させてくれるという方が近いかもしれません。物語を書いていると、難しく考えてしまう時があるんです。

「八雲ってどんな話だったっけ」とか「何が書きたかったんだっけ」とか……ファンレターを読み返して「八雲のこういう所が好きです!」とか「こういう所に感動しました」とか書いてくださっているのを見ると「そうか。今、自分がやろうとしていた事はきっと違うな」と気付かされたり、編集担当さんと意見が食い違ったりした時にもすごく重要なものになります。「怪盗探偵山猫」の新作を書く時、実は一作目でキーマンだった勝村英男という男をもう出さないことにしましょうと編集担当さんに言われて。「勝村切るのか~、でも担当さんがそういうなら……でも切りたくないな~」と悩んでいた時期があったんです。でも、ファンレターを読んでいたら、勝村を求める声が多かったんですよ。「やっぱりみんな彼を求めているんだ!」と、その時は道標になりましたね。

 

――では、執筆を辞めたいと思ったときはありますか?

 

 いっぱいありますね(笑)。ですが、自分で選んだ事ですし、その時は辞めたいと思いますが、本当には辞められないというか……(笑)。

今、突然「一ヶ月休んでいいよ」と言われたら困ると思います。何をしたらいいのか分からなくて。

「原稿なんか知った事か!」と帰った翌日に良いアイデアが浮かんで辞めたい理由が無くなっちゃうというパターンが多いですね(笑)。

 

――映画の道じゃなくて小説で良かったですか?

 

 そうですね。自分の中で今、すごく充実していますから。

私の座右の銘は「待て、しかして期待せよ」という言葉なんですが……サインを書く時とかによく使っている言葉です。

この言葉のベースになっているのが「モンテクリスト伯」という小説の中で主人公であるエドモン・ダンテスが最後に手紙で残した「待て、しかして希望せよ」という言葉で。人間が今、自分が幸せであるのかそうでないのかは、今の状態と過去の状態、もしくは他の人との比較でしかない。この人と比べて不幸だ、この人と比べて幸せだ、過去のこの時期に比べて不幸だ、という事でしかない。だとしたら、人間の英知は次の二つの言葉に集約される、「待て、しかして希望せよ」と。

「希望を持って今を耐え抜く力があれば、未来が全て開けますよ。だから幸せを感じたいなら一度死を意識してみる必要がある。死ぬほど辛い思いをした人は誰よりも幸福感を感じられるでしょう。」という意味で、後悔をしないよう、前を向いて努力していくということを教えてくれた言葉です。

 

――では、もう一度二十歳に戻れるならどうしますか?

 

 うーん……戻らなくて良いですね(笑)。後悔なく生きてきたと思っているので、戻りたいという気持ちに繋がらないんだと思います。

でももし、二十歳に戻ったとしたら……もうちょっと遊ぶかもしれません(笑)。当時しなかった違う遊びをしてみたいですね。

 

――二十歳の頃の自分に今の自分が言いたい事はありますか?

 

 何だろう……「頑張ってね」くらいですね。あ、「遊べ」かな(笑)。

 あとは、「多分今から色々あると思うけど、チャンスは一回しかない。だから、それを掴むかどうかだぞ」と。どうしても無理だったら、それは自分には向いてないって諦めて他の道を進むことも、悪い事ではないですから。

 

――では今の二十歳へのメッセージはチャンスを逃すな!って事ですか?

 

 そうですね。あとは、若い内は全力を出しきろうって事ですね。そこで熱くなることを恥ずかしがらず、かっこ悪くても全力を出し切る。出し切っておかないと後で絶対後悔します。ここまでやってもダメだったのなら、それはしょうがないってスッキリ出来た方がきっと良いはずです。

若い頃、自分自身が「とにかく全力でやれ」ということを諸先生方に教わってきました。まさしくその通りだと思います。

 

 

【二〇一三年  六月六日 木曜日  取材・執筆者:香月茜音】