今若 克哉(教師)

 

兵庫県淡路市出身。筑波大学第一学群自然学類(一般の大学の理学部)を卒業後、兵庫県の高等学校数学科教員となる。現在は情報科教員も兼任している。

 

―では早速、先生は二十歳頃何をしていましたか?

 二十歳、大学2年生の頃に何か変わったことといえばアルバイトを始めたことやな。2つやっとって1つは家庭教師でもうひとつは、、、水田らの世代はわからんとは思うがこの時筑波科学万博ってのんがあってそこのドーナッツ屋でやっとったわ。1年生のときは大学に慣れるので精一杯やったから2年生になって始めたわけやな。

 

―どういうところが一番印象的でしたか?

何しろ30年も前のことやからなかなか思い出せらんことも多いんやけど、富士通のパビリオンが良かった気がするんよなぁ。外国のパビリオンもたくさんあったけど、日本の企業も多数参加しとって、特に大手の電機系企業がよかったなぁ。週何日も中でバイトしとって職員証を見せたらタダで中に入れたし。それで暇さえあれば色んなパビリオンを観て回っとったな。

 

―先生は数学系の学科でしたけど万博を観て理科系の学科を選択しようとは思わなかったんですか?(※先生の学部は3年次で学科選択)

 いや、数学系の方に行きたかった。教員目指すとしたら数学と入る前から決めとった。一方で大学選びっていうところから見ると万博があるからここの大学にしようという感じはあったかな。

 

―なるほど

でや、私の大学はもともと師範学校やったからまあ一般的に理学部って言われとる学部に入っとっても、わしの中で半分くらい教員になろうとは思とったかなぁ。まぁわしの二十歳はこんな感じやったかな。

 

―先生が教員を目指したのはいつ頃ですか?

 私は教員の家系やなかったんやけど、高校のとき、年が離れとる従兄弟が教員やっとったから「やりがいのある仕事や」とかそういうことを聞いとるうちにやりたいと思うようになってきとったな。この頃は選択肢の一つやって大学も教育学部やと絶対教員にならなあかんと思ってたから、普通で言う理学部みたいな所に行ったなぁ。

 

―では、本格的に志したのはいつ頃ですか?

 やっぱり家庭教師とかやって、やっぱり教えていたら「ほんまにわかってくれてんのやろか」とか思うわけよな。ここで人に教えることの難しさを知ったわ。で、我流やけどいろいろ試行錯誤してみて見とった生徒の成績が上がったりすると「やっぱり分かってくれとったんやな」って分かるんよ。そういうところにやりがいがあると思ったかな。でもやっぱり決め手は教育実習やったな。このときの数学の高校教育実習は3週間やったんやけど、それだけでも教員になると決めたなぁ。

 

―教育実習でどういうことを学びましたか

 家庭教師は前々からしとったんやけど、一対一で教えるのと一対四十とか四十五とかで教えるのとではぜんぜん違うというとこやろな。家庭教師やと会話しながら教えれるけど、クラス全体に教えるとなるとそれなりに教材研究もする必要があるし、どこの学力に合わせて教えるべきかってのも考えらなあかんかったっていうのが大きかったな。私は付属高校で実習したから高校生も実習慣れしとったけど、それでも難しかったんは覚えとるな。

 

―私も来年から本格的に「教える」ということを学ぶのですが、何かアドバイスをお願いします。

 基本、自分が知っとる事を全部教えるんやないよな。「どこからどこまで」っていうのを生徒のレベルに合わせて教えることが重要や。使うとは限らんけど、教科書以外のことも正しく知っとく必要があるわな。

 

―ありがとうございます。

 

―では、教員を目指したのはやりがいですか?

 そうやな。高校は特に進路とかもあって言うたら人の一生に関わってくるから非常に重要なわけや。そこに少しでもわしの力を貸してあげられたらなと思ったな。わしが大学生の頃はバブルが始まろうとしとる時で、企業からいわゆる引く手数多な状態やったんやけど、それでも高校教員になりたいと思ったなぁ。

 

 

―なるほど、最後にこれからの目標のようなものをお願いします。

 非常に難しいんやけどな。私の母校はそろそろ100周年を迎えるんや。そこで定年退職するまで私の後輩に当たる生徒たちを教えたいなぁ。去年から学区編成が変わって淡路の外の高校に行けるようになってさらに北淡路の高校の存在意義が問われるようになった今、わしが多少なりとも力添えができればなと思っとるなぁ。。

 

―難しいですねぇ。―

 

―貴重な時間を割いていただき、また貴重なお話ありがとうございました。