小山 裕司(ディレクター

 

1976年、東京都生まれ。 

SONY MUSIC RECORDS所属。

アーティスト “UVERworld”のプロモーション、制作等を担当。

 

――二十歳のころ何を考えていましたか。

 

 二十歳のころ、あんな感じの格好をして(このインタビューの前に大学の講義で小山さんが講義をしてくださった時、自身がモヒカン等の髪型をされていたことを紹介して下さった)、とにかく俺は働きたくなかった。働かなくて良ければ働きたくなかったし、別に何かをしたいっていうのも正直なかったし、二十歳ぐらいの時、ようやく勉強っていうのは意味がないって思い出したときで。勉強って意味がないっていうか、自分がやっぱつまんないっていうか。俺も大学へ通ってたもののそれまで高校から大学にいくときっていうのは、全部受験で審査されて、ろくに受験もしなかったけど入れてしまうっていう誰かの基準があったけど、そこから先はないと気付き、バイトはしてたけれど、それもあんな格好で出来るもので、仕事したくないから、まとまった金が稼げるっていうか、変な話だけど学生で実家だったから、そんなに金もなくても大丈夫だし、物欲もそんなにないし、まあ楽器をやってたもののそれに必要なお金は親がサポートしてくれるし、まあしてくれるっていってもそんな大金をくれるわけじゃないけど、自分が稼ぐお金は少しでなるべく働かないようにしていた。でもバンドやってたから、今思えばやっぱバンドを続けたかったっていうだけの思いで色々その動けてた、動いてたのかなとは思う。

 それで、あるときになって、なぜかみんな突然そういう格好(所謂一般的に言う「マジメ」な格好)をしだして、昨日までと違うマジョリティがそこに出来てしまって。三年生といえば就職活動でしょっていう感じになってしまって。やっぱり誰もかれもがそれにあてはまって、まあ留年している人たちもいたから、その人たちは来年になっちゃったみたいな感じだったけど、でもやっぱみんな就職っていう道しかないって決めつけてた子たちがいる中で、とにかく働きたくなかったっていうのがあって、何かその枠組みの中で不自由になるというか、そもそもそれも間違ってたと思うけど、何かに使われたり、自由な格好が出来なくなるっていうくだらない理由だけでその選択をまず探したかった。一応現役のときもレコード会社を受けたけど、レコード会社を全部落ちて、その瞬間に髪型をまた変えて卒業アルバムみたいな。で、まあそうすると、もうその時点で基準からもれるじゃないですか、おそらく。一般企業の基準からもれるから、そうすることで自分も周りも諦めさせることができると思ったけど、やっぱそれは逆に火がついちゃって、なんかもう親は悩むし、友達はどうするのみたいになって。どうするのって、結局人のことを比較しながら、彼らは多分安心してた。こういう奴もいるから自分はまあ大丈夫だろう。

 それで、卒業するまでなんにも決まってなくて、どうしようかなーって本当卒業式の日にこういうバイトあるからやんないって言われたのが、今もう結構いい企業なんだけど、サイバードっていう関学の人がたてた会社で、そこに拾われて、まあバイトだったんだけど、暫くその会社で働いて、でもネットサーフィンしていた時、ソニーミュージックを見つけて、面接受けて入れちゃった感じだった。だから二十歳のころは何も考えてなかったなあ。そんなに何かこのために成蹊大学経済学部を選んだこともなかったし。たまたまそれが学校の推薦枠にあって、そこにエントリーしたら入れたっていう。まあそう言うと頑張って入った人に失礼になるかもしれないけど、本当に全然考えてなくって、もちろんそこだめだったら受験をしようと思っていたものの、入れたのでそこでいい。「そこでいい」の連続がもう今に至っている感じがあって。そのつどそこで一生懸命やれることを見つけていったのかなとは思っている感じですかね。二十歳はまあ、この先に話さなきゃいけないかもしれないけど、二十歳のころに何かを決めるのは無理ですかね。よほど昔からスポーツをやってるとか、そういう人じゃないと無理なんかじゃないかなと。

 

――では、そのころに自分の中で一番大切にしていたものは何かありますか。

 

 まあ現実的に考えたらお金がないと何もかもできないと思ったから、そういう話になっちゃうかもしれないけど、だから実際にはその動けるための何か礎を築かないとは思っていたものの、大切にしていたものっていうのは、やっぱ音楽が好きだったり、エンターテイメントが好きだったから、そういうことに携わりたいとは思っていたかもしれない。でもそれは、「します」って言ってやっていたのではなくて、それ以外見当たらないっていうことだったかもしれない。ひょっとしたら、何かの会社の営業やっていた場合でも一生懸命やっていたかもしれないし、それは計り知れないけど。

 でも、大切にしていたのは妥協しないというか、強制されたくなかったから、自分で選ぶこと。あと格好かな。格好まで人に口を出されたくないところで。まあモヒカンにして、髭はやしてっていうことによって、まあ本当くだらない話だけど、人が寄ってきたり、人にこうチヤホヤっていうか、人に信頼してくれたりっていう、そのほうがあったっていうのはあって、見た目よりも行動してしまうことが興味を持たれて。あと、待ち合わせ場所とかでも分かりやすいっていう理由で。今は伸びてるけど、この間もこういう髪型(モヒカンの様なヘアースタイル)にしていたりすると、なんか自分らしくいられるっていう。本当はそれって自分らしくいられるっていうのはネガティブかもしれないけど、そんなところを取り繕わなくても自分らしくいられると思うけど、なんかその時の方が運が良い気がして今も忘れられないっていうのはあるかっもしれないですね。

 

――じゃあ、二十歳の誕生日はどうやって過ごしたか覚えていますか。

 

 二十歳の誕生日。何していたかな。覚えてないね。そのとき彼女はいたものの、誕生日とかそういうのはあまり意識しなかったので、一緒にいたってこともないような気がする。

 

――そんなに記憶に残らない誕生日だったのですか。

 

 そうだった気がする。うん。全然意識してなかった。

 

――二〇代でやっておけばよかったなって今になって思うことってありますか。

 

 やっぱ世界中のどこかにもっと行ってみたかったなっていう。まあ今からでも遅くないと思っているものの、やっぱり仕事しだして何か目的を見つけてしまうと、他のことがおろそかになっていくっていうか。まあやっておけばよかったかわからないけど、そしたらそっちのまた人生があったかもしれないけど、もともとはカナダにワーキングホリデーいこうとしてお金を貯めて、それはカナダに旅行に行ったときに向こうで会った日本人とかすごくいいからお勧めしますって言って、とにかく目的もない二十一、二ぐらいをすごしていたので、二十三ぐらいかな。そのときは、そのまあ英語も学びたいし、英語は出来たらかっこいいっていうのがあって、使えると思って、絶対かっこいいだろうなと思って、で行こうとしていたものの、その途中で就職が決まっちゃったので、どっちが良いかと行ったら、まあワーキングホリデーはこっちから選べるけど、ソニーミュージックっていうのは向こうから選ばれた。そのチャンスがあるなら入ってみようと思って、まあ早十年たっちゃったみたいな感じかな。

 やっておけばよかったのは、留学とまではいかないけど、色んなものをみて、きいて、視野をどんどん広げていくことが今になって必要なんじゃないかなとは思ったし、勉強しようとは全く思わないかな。まあ、興味があるならばやればいいけど、もっと人との時間を犠牲にしてギターを好きだったから、もっとやっておけばよかったなとか、今となっては、そのときの技術以上のことはなかなか出来なくなっちゃうから。

 それはでも三十ぐらいだったかな。時間を犠牲にしてでもやっぱり自分のすきなことは続ける。最近なんかまあ自分の時間ができてきたからっていうのもあるけど、やってみると意外と衰えてなかったりするから。それならば、もっと続けていたらもっと凄かったのかなって思うと、やっておけばよかったと思うし、絵も描いたりするし、なんかこういうすきなことで、これは金になるか金にならないかってゆう判断にどうしてもなってきちゃうっていうか、続けていても意味はあるのかどうかってことになって、自分が楽しければ全部続けてればよかったかな。その旅行もそうだし、絵も音楽も映画も。今それを取り返すために、なんか自分で映像とったり、UVERworldのカメラマンをやらせてもらったりとかっていうのを、それこそ自分のつくる組織じゃないけど、自分のみえる世界の中でやってみるっていうのをやってみるとかかな。だから好きだと思うことはもう全部やっとけばよかったなっていうのは正直なところですね。

 

――子どものころの夢って何か覚えていますか。

 

 子どものころは絵描きになりたかった。でもどうみても自分の両親は芸術的なことをやっているわけでもないし、サラリーマンと普通の主婦の家で。だから自分に見えている範囲のものは、所謂サラリーマン。まあこうなっていくだろうなと思っていたけど、それこそ二十歳ぐらいのときかな、それが自分の思い描いていた普通の人生はこうなるのだろうなと思うところからどんどんどんどん離れてって、髪型も全然違うし、なんかどうしちゃったんだろうっていう。ここまでは真面目にというか、本当にまあ高校のときから髪型あんま変わんなかったけど、なんか外れることに恐れていたから。

 二十歳ぐらいになってからは本当学校へ行かなくなって、でも要領よく三年で単位を取り終え、四年はなにもすることがないみたいな感じだったけど。子どものときはやっぱ絵を描くのが好きだったからっていうか、一人で出来ることを目指していたのかもしれない。それこそ、なんか人に関わってあれこれ面倒くさくなるのがそのときから多分好きじゃなかったっていうのがあって、絵は一人で完結できる。まあ、金にはならないけども、なんか金にならないって言ったらちょっと大げさかもしれないけれど、うん。まあ、すきなことがやっていけたらいいなとは思っていたけど、もう、本当後付けで今思えばそういうだけで当時は本当集団の中の一人で当たり障りなくいくっていうのがおそらく自分の人生だろうなと思っていたところがあるっていうのが二十歳ぐらいだったかもしれない、ひょっとしたら。

 

――人生の分岐点って何かありましたか。

 

 代々木公園でストリートライブとかを毎週やっていたときに出会った人たちが、それまではやっぱコミュニティーに属している、まあバイトもしていたけど、全然人がいるバイトじゃなかったから、色んな人を見る機会っていうのがなくて、そのコミュニティーに属したときに、リーダーはプー太郎。俺よりも年上で。後は、着替えとか持ってくるけんちゃんっていう当時三十二歳の車暮らしの男。そこに来るジャックっていうアメリカ人の少年は家が国際通貨基金IMFっていうところでお母さんは働いているから不自由無くなんかやってるみたいな。色んな人がいて、でその友達が連れてくる女の子、えっと二歳ぐらいの女の子と戯れながらやっていた。

 学校はやっぱり同じくらいの年、ほぼ年齢も大体体力とかも同じような人たちがいる中で、三十二歳と二歳にはさまれたその時と、あとそこに来ていた人達で、人と比較していいんだなと思ったのはそういう時期があったから。本当前科者の人が行く高校卒業しましたっていう人もいたりして。でもすごい楽しそうにやってんの。この人たちに比べたら俺の悩みごとなんてたかが就職できなくて家に居づらいとか、そういうだけの話だと気づいた。何かをするための準備であればまあいいのかなっていう、免罪符みたいなものを用意しようとしているうちに就活決まっちゃったから、逆には逆転してしまったって喜ぶし、ソニーミュージックなんて言ったら、実際そうじゃないけど、世間の体裁を整えるには格好の素材にはなったなと。

 でも分岐点は、その前のフリーター時代の二年間は、一番自分の中で今思っても楽しかったって思える時代で、そのとき知り合った人といまだに遊んだりしている。それこそ一人は今「いきものがかり」のマネージャーをやっていて、最近会うと、俺たちアンチメジャーでメジャー音楽なんて言いながら演奏していたのに二人でなにやっているんだっていう話をたまにするよ。当時、お互いメジャーはクソだって言っていたよねっていう話をしながら、UVERworldは東京ドームをやって、「いきものがかり」は百五十万枚売り上げて、しかも横浜スタジアム2デイズというのを完売させ、その翌日に二人で食事をして、俺たち何をやってるのかねって、あのころの思いはどこへいっちゃったのかって思うけど、音楽が好きなのは変わらなかったから二人とも。でも、そういう人が中にいるっていうのがやっぱ頼もしいことなんじゃないかなと思いながら、今は言い聞かせてたりして。でも、その「いきものがかり」のチーフマネージャーの加藤さんっていう人が多分今までの人生で影響した人。その人に憧れたとかじゃなくて、その人と出会ったことが、別にその人になりたいってわけじゃないけど、なんかその人に受け入れられたっていうのはひとつの分岐点かなと思います。

 

――仕事をしていて心掛けてることは何かありますか。

 

 可能性は全部探る、可能性。それが出来るか出来ないという判断を自分の目で確かめること。何を目的かにするか、何を目的にしているかっていうと、自分がなんだろう、こうしたいんじゃなくて、自分が携わってるアーティストが世の中にどうやって見えていくか。だから僕らの姿は見えないじゃないですか。で、UVERworldやその他のアーティストっていうのだけがさらされていくわけだから、その裏側にいる人たちは手を抜いちゃいけないっていうか、全部探りきらないと、俺たちが目の前に出て行くんだったら、手を抜いてもいいと思うし、それは自分の責任になっていくけど、なんか当日になって、例えばこれもできた、あれもできたっていうふうに思いたくなくて。実際にはそういう後悔のほうが多いし、だけど、でもやっぱりあれもやりたいこれもやりたいっていう中の、例えば三人に段階をおって話さないといけないことがあったとしたら、この人がNGだしたとしても、いやこの人は違うかもしれないし、この人は違うかもしれない。決定権を持っている人と直接話せるのだったらそのチャンスが欲しいっていうので、とにかく行って可能性を探って、それでもだめでようやく引き下がるか、でもそこで可能性が100はだめだけど、じゃあ10だったらどうですかって言って、10でもやりたいです。OK、10なら。じゃあ10だけやろうっていうとこまでいきたいっていうのはある。心掛けていることかな。

 アーティストを人前に立たせないといけない仕事をしているので、こないだのゼミに来させると言うのもいちかばちかな訳ですよ。彼(TAKUYA∞)がはたして学生を相手に話ができるかどうかっていうのは、やってみないとわからないけど、その状況を全部つくって、ここまでやってあげれば彼は自由にくるだろう。でも、ここまでしかやらなかったら、恥晒しに行くだけになっちゃうかもしれないと言うのも、毎日やれるそのことをやっているだけなので、可能性はとにかく探っているうちに、それを話すところが多くなればなるほど知り合いも増えていき、それでまあ面白い人だなとおもった人が逆に声を掛けてくれたりというので広がっていくから、それで味をしめるとか可能性は全部探る。なんとなく可能性を考えてだめかもしれないっていうので聞かずに引き下がっていくっていうのも昔は多かった。でも、だめかなーと思った人に、例えば田中先生がTAKUYA∞に来てほしいって言ったのもその例だろうし、いや、来てくれないですよって意見が例えば多かったとして二十人中十五人が来てくれないでしょ、でも呼びましょうよって、その五人を信じれるかっていうところを常にやっていかないといけない。人は機械じゃないから、パーセンテージは出せない。それは全て五分五分で進んでる。五十%の確率で進んでいるからどっちかには絶対ころぶだろうっていうのでいくと、まあおもしろいかなっていうのを心掛けてるかな。だから、やりたいっていう特に自分が決めたことだったらそうで、それ以外のこともなんかどうでもいいことはすぐに諦め切れる。逆に必要ないものだとおもったら。必要だとおもったものは全部さぐりきるのがまあ憧れというか理想というかだし、それを自分一人じゃなくて、周りも伝播してそれが出来たら楽だし、あそこ確認しといて、そこ確認しといてっていうのが、強制もしなければなんだけど、気持ちでやってほしい人をそれこそキャスティングしてこの人だったらやるだろうっていうのを、うまく見極めて最後まで探らせるっていうのをやっているかな。妥協しないとはまた違う。妥協するときは本当すぐ下がるので、それが無駄だと思ったら。

 

― 座右の銘はなんでしょうか?

 

 座右の銘… そんなに簡単にみんなまとめられてますか?

 「楽しく」ですかね。楽しくやるには辛い事も必要だから、「楽しく」。

もっと四文字熟語とか?でも何もかも楽しくやってもらう。自分が辛くても楽しくその状況を与えたい。今となってはだけど…。だから本当に矛盾してるんだけど、二十歳前までは絶対に働きたくないって言っていた自分が今、申し訳ないぐらい自分の中では働いている、自分がいるフィールドの中では結構働いている人になっちゃっているのが、自分でもおかしくてなんでこうなっちゃたんだろうっていうと、やっぱ楽しいフィールドを与えてもらっているから、だとしたらその楽しいフィールドを与えて、それが尚且つもちろん意識しないといけないビジネスとかがあるから、それになればこんなHAPPYなことはない。そう思ってUVER World はそれこそ自由にやらしてもらってかつ、彼らも自由にして、でもこうやって世の中の人が受け入れてくれる状況が出来ているから、これがいつまで続くか分からないけれど、それもそれこそ調べつくして安心材料をとにかく集めてやっていく。基本的には楽しくじゃないとおそらく回っていかないので、一生続けていくとしたら楽しい方がいいかなっていうそれだけですね。

 

― 今の若い人たちを見てどう思いますか?

 

 別になんとも思わないけど、それぞれの時代に見えるものは違うから、どこまでを若いと言っていいか分からないけど、もうちょっと意見をほしいというか、教えてほしい今の世の中を。そうじゃないと俺たちは過去の人になっていくから実際に見えている自分の世界というのを教えてほしい、分かりやすく教えてほしい。普及率とかでスマートフォンとかを測っていいのか?とかそういう堅い話かもしれないけど、でも実際は、自分が一日に使うインターネットのルートは決まっているからバナーなんて見ないし、そういうこととかも、すごく重要な情報で、その世代が見えているものを教えてほしいし、古い考え方のまま突っ走っていっても、結局無駄な時間になるわけだからそれが。やっていることっていうのが、経験だけが邪魔をして押し付けて、じゃなくてちゃんと古い考えと新しい考えを融合して教えられたら、もっともっと自分が楽になると思うんですよ。人が動いてくれるから、というのを若い人たちにやってほしいかな?

 でも、会社でいうと僕らよりも上もいるから、その世代が細分化している中で、それをやれというのは結構難しい話だから、クッションになる僕らがその状況を作ってあげなきゃいけない、楽しくやるっていう状況を作ってあげなきゃいけない。でも、楽しくやるには一度経験させなきゃいけないから厳しくなっちゃっているかな?結局は…。でもとにかく教えてほしい、その時代のリーダー、その世代のリーダーっては必ず違う人だから、全部ひっくるめて一つのリーダーってことはできないと思うので。それで、やっぱ年の下の人に言われたらすごいムカつくこともあるけれど、そこもちゃんとのみ込めるように自分も態勢を準備しておかないといけないとは思うし、見えているもの、聞いているものとか、感じていることっていうのはすごく重要なことだと思う。生きている中で無駄に過ごさないためにも調和はしていかないと、世代で。とは思うかな?答えになっていますかね?大丈夫ですか?

 

― 私達二十歳の世代に最後に何かこれだけは伝えておきたいメッセージはありますか?

 

 好きにやったらいいと思いますよ。自分は子どももいないし奥さんもいないから、だからそう言うのかもしれないですけど、でもなんか、最初は政治の話も盛り込む予定だったけど、政治って結局まぁ強制力はあるけど、多数ではなくてその意見は実は…。というのがバレてきちゃっているじゃないですか。Facebookとかで友達五人がこういうこと言って楽しいって言っているけど、税金はこれだけ上がっちゃうんだよね。みたいな話で、どっちが正しいかって言ったら自分の周りの人たちのほうが正しいわけだから、そのなんか体制によくせずに、もちろん従わなければいけない、その裁かれちゃうっていうズルさは持っていると思うけど、なんか好きなようにやって、全部疑ってかかる位のやり方でいいかな?とは思う。

 「ここにいったらいけない!」みたいなものは自分で見極めるべきだし、人殺しちゃいけないって言われたら分かるけど、ではなんで万引きしちゃいけないのだろう?この人死ぬかもしれなかった時に、どっちが悪いのだろう?みたいな話になると思うの。話は分かんなくなっちゃうけど、なんて言うのですかね?ある程度ルールを破っていかないと変わっていかないと思うし、好きなようにやってみて…。あとは自分以外の人っていうのは自分が絶対に分からないから、例えばここに三人いたら三人とも同じだと思う。僕から見たら。他人っていう意味では。だから自分もこう見られているだろうなって思わずに、そこを破壊していく。意外と興味あるように見えてみんな不幸のほうが好きだから。人に戯れて、五人ぐらいいたとしたらみんな探り合っている時期もあると思うし、なんかそこに浴せずに好きなようにやってってイメージを勝手に自分で作らないっていうのがいいかな?って。あいつは真面目だからって言われていた俺が今こうなっているわけだから。なんかそうだね…好きなようにやったらいいっていうか、あんまり人の目を気にせずに、さっきも(小山さんがこのインタビューの前に授業で講義をしてくださった時)結局あれだけ質問無いかって言っても出てこないのに、みんな質問書いてよこしてくるわけですよ。そういうところを周りがしないからじゃなくて、どんどんガンガン自分を出していくっていうのがこれからないと、なんだろう?競争じゃないけど、元々それを兼ね備えている外国人達ってやっぱりいるじゃないですか。どう見てもガツガツっていうか、周りを気にせずにやっている人たちと、まあ日本がこのまま豊かにいけるかどうかっていう話はずっと出ているじゃないですか。そういう中でいうと、もっと個人を大事にして、がつがついっていいんじゃないかな?とは思いますね。そうしないと若い世代がそうしてくんないとだんだん動けなくなってく僕たちが困る、というのは目に見えているじゃないですか。逆にそれが困っているっていうのもありますけど、高齢化社会で、税金が足んなくてみたいな。でもだんだん年寄りは死んで、若い人たちだけになるというのが繰り返していくのだとは思うものの、今の生活レベルを維持しないと自分の夢が叶えられないのだったら、やっぱり個人を強くしていかないといけないと思うし、そうじゃないと生きることが夢になってしまう状況もあり得ると思うので、それは新興国と言われているようなところが、今そういうような状況の中からだんだんだんだん這い上がってきてというか、経済状況がそうさせてしまったかもしれないけれど。日本は上りきった中から、ちょっと堅い話になっていますけど、それこそ平均を作ってしまったことによって、上下が分からなくなってきて、でも本当に必要なのは、強い人たちが変えていってその弱い人たちを引っ張っていく。だけど、平均的にしちゃったことで、誰も引っ張らないし誰も落とさないってなったことがちょっと心配かな?とは思う。

 その理由は、自分が将来その人たちにお世話になると思うから。それでいうと個人が強くなってくれれば、もっとその人たちがまた集まって集団を作って、またその集団同士が合わさって世界ができているわけだから、一人の力っていうのが高まってほしいな。ロシアだったら、あいつ体操できそうだからって一生体操やらせたりするじゃない。日本人は体操できそうでも授業出なさいと言って体操させないで。また、才能があっても、同じカリキュラムをある程度はやんなきゃいけない。それが悪いとは思わないけれど、それをなんかもう少し引っ張る方法があるといいなとは思っている。だから若い人に委縮してほしくなくてどんどんどんどん才能を伸ばすというか、やってくれないとこっちは困るっていうのは目に見えているので、レコード会社もおそらくそうなっていっている気がするので、才能があるっていうか一生懸命なにかエンターテイメントってことを意識してやっている人と、片や日々をこなす仕事だけをしてやっていく人とっていうのが、割合的にはこの破天荒な人が減ってきていて、エンターテイメントではなくなっちゃうものになっているのかな?と思うので、そういう救世主たちを育てるには押さえつけるよりも伸ばすっていう方が必要なんかじゃないかなとは思っています。

 つまり、ここまでやっちゃいけないっていうのを自分で見つけてった方がいいんじゃないか。意外とやっちゃいけない事って多分少なくて、その目をかい潜ればってのはあるけれど、海外に行くとまあ良く話に聞くと思うんだけど、中国人は並ばないとか言うじゃないですか。そういうくだらないことだけど、マナーとしては並ぶっていうのが正解だけど、中国人は並ばないってなったら中国ではそれがルール・マナーであり、マナーとはちょっと違うように感じるかもしれないけど、中国に行ったら自分も並ばないっていう風にしないと競争出来ない。「日本人は」とくくっていいのか分からないけど、まじめにルールを守るがあまりに、赤信号だから止まりなさい!と言ってそこの列になんか別のものが突っ込んできたけど、「赤信号だったんで渡れなかった」と例えば言ったとして、どっちが正しかったかっていう判断を出来なくなっちゃっているような気がして。逆に言うと、青信号でも危ないから止まれってことは出来るのに赤信号になった瞬間に、自分の危険を赤信号で止めちゃうっていうか、受け入れちゃうっていうか、ちょっと分かりづらいけれど、なんかルールってどんどんどんどん新しくなり、曖昧なまま過去になっていくから、実は全然矛盾していると思うし、携帯電話を車内で使っちゃいけないって言われても、どっちが正しいのかと思うじゃないですか。携帯電話をこれだけ持っていて緊急の連絡が取れるのに電車降りるまで使うな!とはおかしいでしょ?というような事を常に疑問をもっていた方がいいんじゃないかって。だからなんか通話専用のスペースを作って、そこで話してもらうってした方がみんな気持ちも穏やかにいけるのに、なんか話している姿を見ていやだなって思っちゃうルールを勝手に電車の会社とかが作っちゃって、元々それは不快なんかもしれないけど、逆にそれならここは通話していいスペースですといった瞬間誰も言わなくなると思う。それでも言う人がいたら、やはりマナーとして通話しない、という方がいいけど、どっちが大事かってひょっとしたら家族からの電話ですと言ったらすごい緊急事態かもしれないっていうことを見極めるっていう臨機応変があった方がいいんじゃないかな?と思うし、そうした方が勝ち抜いていけると思いますけどね。

 それでも自分はこのルールの中でやる!という人だったらそれは美しいけどね。なんか打破していく方が、近道が出来るのだったらそれはそれでいいと思うし、意外と人が見ていないって話もさっきしたけど、それについてそこまでとがめないでいいとと思うし、それは自分の見栄とかプライドまで行くとちょっと大げさだけど、見栄だけだと思うのね、なんかそういうことを捨てろとは言わないけどある程度自分をコントロールしていってほしいなと、まあ若い人たちはひょっとしいたらそのへんのルールが逆に俺たちより低く考えているかもしれないけど、なんか頑張ってほしいなと、本気で思います。じゃないとね、ほんとに自分たちが楽できない。全部自分でできないから本当に。

 大丈夫ですか?こんなことが記事になって…意外と話したいこといっぱいあるんですよ。こんな人じゃなかったのですが、「関係ねえぜ」って思っていたんだけど、助けてくれるって事が分かった瞬間にやっぱり同じ意志を持って助けてくれる人たちが増えるってことが悪くないと思うと、まあその方が楽だなって。で、自分の時間を作ってそれで遊ぶっていう得意技。

 

―以前、小学校の時に登校拒否になったという話を聞いたのですが…

 

 その時は、小学校2年の時はほとんど学校に行ってなくて、でもやっぱりたぶんその…なんだろうな。幼いながらにそれが理解できなかったのかもしれないし、集団にいることへの不満というかなんかがあったのかもしれないけど、全然影響がないかな?今は…小学校二年の時は確かに学校行ってなかったな…つまんなかった。それ以降はわりと…でもやっぱり今でも、会議はほとんど行かないし、たぶん月曜日は必ず会議があるんだけど今日も月曜日だけど行ってないし、とかいう緩さがちょうどいい。登校拒否が登校拒否じゃなく感じてもらえる、自分で動くっていう。でもな、それがあるからか分からないけど計算が苦手かな?ちょっと…小学校二年生でやるべきことがやってないかもしれない。自分の居場所っていうか、自分が動くのがあんまり好きじゃなかったのがあるかもしれない。そんな話していましたっけ?自分の意志でできるような年じゃないと思うから、周りがしょうがないと思ったのだろうけど、なんか子どもながらに、たぶんなんかこうすれば自分のわがままが通せるって思ってちゃったんとだと思う。まあ仮病も使いーの、でもほとんど行かないって仮病だと思わない、仮病って言うかね。家の中では結構一大事だったと思ういます。歩いて5分で通えるのにね、家に居ましたね。家にいてなにしていたのだろう?行っていたのかな、それとも。でも担任の先生が家に来たり結構頻繁にしていたからたぶん行ってないんだろうけど。

 

 

ーありがとうございました。