尾関 健治(元 関市長)

1972710日生まれ。

岐阜県立関高等学校を卒業後、早稲田大学商学部へ進学、卒業。

関市議会議員を経て20119月関市長当選。20159月、同市長再選。

 


———二十歳の頃何をされていましたか?

 二十歳の頃は私も大学生2年生ですね、大学はあまり真面目に行ってなかったので、一応大学生でサークル活動をやったり夏休みには少し、バックパッカーを。今は少し少ないですかね、リュックを背負って一人で結構ふらふらと海外に行ったりするのが。割とみんな行っていたので私も行っていました。夏休みとか春休みにはバイトでお金を貯めて二週間海外に行ったりして、という日々でしたね。

 

———専門は政治の勉強をされていたのですか?

 学部は商学部だったので、経営管理とかゼミだったんですけど2年生だったのでまだゼミじゃなかったので。政治家はあとの話にもつながるんですけど、高校時代に市長になろうというのは決めていたので。どちらかというと私は早稲田に行きたかったので、政経学部、法学部、商学部、社会科学部の4つ受けて、政経の方が落ちたので、社会科学系ならどこでも、政治に関わる勉強ができると思ったので、まあ引っかかった商学部に入ったという経緯ですね。まああまり褒められたものじゃない・・・

 

———いつから市長になりたいと思っていましたか?

 高校時代に政治家とか市長になろうと思ったんですけど、中学校の時はバスケ部だったので、単純に将来バスケットの選手になりたいなと思っていて、まあバスケット大好きだったので高校に入って、自分のレベルもわかってくるし関高校もそんな部活で全国目指す、そんなところまではいかないので、バスケットボール選手は難しいかなと、ね。将来、自分がどういう生き方をしようかなと考えたら、普通であればどっかに勤めて、というのが一番割合としては大きいと思うんですけど将来自分がどっかの会社に入って働いているという姿があんまり想像できなくて、自分でも燃えなかった。今ひとつぴんとこない感じなので・・・で、一方で綺麗事かもしれませんけど、世のため人のため、自分のためじゃなくて人のために、地域のために仕事している自分を考えたときに燃えるものがあって。もうひとつは当時リクルート事件という割と大きな事件になったんですよね。で、これもまだ若かったというのもあったと思うんですけど、政治というのは特定の声の強い人とか、お金の持ってる人のためにゆがめられてはいけないんだとか、公平であるべきだという思いを、すごくそれに対して怒りを持ったというのが2つめですね。で、3つめは、まあ単純に関市で生まれ育った人間なので、関市が好きだし、関市のために働きたい、働けたらいいなというのがあって、当時の私は今言った3つを混ぜ合わせてEnterボタンをポンッと押して当時出てきたのが関市の市長、でしたね。単純だったんでしょうけど。将来は関市の市長になると決めたのが一番最初ですね。ちょっと変わってる、って言われるんですけど。そっから先の人生の選択肢というのはいくつかあるんですけどやっぱ基本はそれが頭にあるのでそれを中心にどっちを選ぶかいつまでにどうやるかを決めてきたというのが自分自身の今までですね。

 

———市長になるために具体的に動き始めたのはいつですか?

 とはいえ、高校時代は特に政治に絡んで何かをしたということは全然なくって、普通の生徒だったと思います。大学

に入ってから入ったサークルは政治サークルではない、早稲田でいうと雄弁会とかいう有名な政治のサークルがあってそうゆところも入学したときに覗いたんですけれど、ちょっとそこはそこですごい世界でちょっと合わん、と思って・・・で、政治サークル入ってなかったんですけど、私が入ったサークル、仲のいいサークルがあってその中に政治サークルとかあっていろんな政治の講演会の手伝いとか選挙での手伝いとか声がかかるのでちょっとずつ・・・大塚さんと一緒の大学1年生くらいから選挙の手伝いに行ったり、というのが最初ですね。私、恥ずかしい話、あまり大学行ってなかったので、1年留年してるんですね。早稲田って1年生2回目とか3年生2回目とかじゃなくって5年生6年生7年生8年生って上がっていけるんですよね。だんだん偉くなっていくんですけど(笑)。私は5年生まで上がって、そのときに政治サークルの関係の人から「将来、政治、市長になりたいっていってるけども、国会議員の事務所で学生の秘書を探しているんだ、おまえやってみないか」と声がかかったんですよね。ちょうど留年決まってて、単位が1単位足りなかったので1コマ、月曜日の朝一に1コマいれて、で、保険でもう1コマとって・・で、月曜日の午後から金曜日まで空き時間なんですね、大学5年生の時に、1つでいいので。まあ時間もあるので国会議員の事務所のところに大学5年生のときはちょっと月曜日の午後から平日の日中は全部永田町の国会議員会館に、そこにずっと詰めてました。バイト代もらいながら。で、そのときの国会議員が今の名古屋市長の河村たかしさんが、まだ当選2回目だったんですね。日本新党という政党があり、新進党っていう政党ができたんですね。ちょうど新進党という政党ができたときで人を探しているということで学生秘書という形でそこへいったということですよね。だから、日本新党ができたのが細川護煕さんという方ですね。新党つくって政権とってすごく、政治のなかでは大きな出来事だったんですけど、当時大学3年生だったのでそのときの日本新党の方の手伝いにいってたんですかね。選挙なんかの手伝いに。大学時代はそんな感じですね。

 

———大学生の時にやっておいてよかったことは何ですか?また、やっておけばよかったことは何ですか?

 やっておいてよかったことは、さっきバイトの話とか、海外へいった話とか、まあ選挙のバイトとかまあ選挙以外のバイトでも飲み放題食べ放題の割烹料理のとか塾の講師とか家庭教師とかいくつかやっていて大学で勉強してないのであまり偉そうなこと言えないんですけど、まあやったほうがよかったことは勉強ですかね。ただ、やってよかったのはいろんな、まあこういう立場になるとやはり経験しようと思ってもやれないことがあるので、海外もそうだし、サークル活動も、今はできないのでアルバイトも含めて・・・まあ勉強以外のことが今になって間違いなく自分自身をつくっているな、って思っているし、市長をやるのにほんとにいろんな人がいらっしゃるので、関市の人だけでも9万人いるわけなので、考え方も180°違っているし当然家庭の事情も違うし、もっというとお金も全然違って、考え方も全然違うのでいろんなちょっとでもいいけども経験しておくといろんな人に対応できると思います。ま、自分の意見持つことも大事ですけど、いっぽうでそれだけでは政治家ってできないので半分以上は人の話聞いて調整をして、最後、自分の考えも照らしあわせて、結論出していくというのが仕事なので、いろんな経験をしたことによっていろんな人の意見がきけるという面もある。それが大学時代に留年はしたけれどもお酒も含めていろいろやっておいてよかったなあということですかね。くどいようですけども、やっておくべきということは勉強です。留年しない方がいいと思うので(笑)。大塚さんは大丈夫だと思いますけど(笑)。

 

———今まで一番苦しかったことは何ですか?

 苦しかったこと、、、やっぱり、政治家って選挙をやらなくてはいけないので、今までやった選挙、4回やっていて、市会議員の選挙2回やって、市長選2回やって。ただ、去年の2月の市長選は無投票だったのでほんとに戦ってはいないんですけど、特に1回目の市長選のときは私、市会議員をやっていて、前の市長さんの尾藤義昭市長さん、今県会議員やっていらっしゃる方がいてすごく力のある人だし、支持者の方もたくさんいて、その人に対して当時39歳で若造が手をあげて市長選を戦ったので、やっぱそのときが、もちろん自分でやるといって手をあげているんですけどね、市長選に。高校時代に思ってる訳なので、手をあげたんですけど、まあやっぱそのときですかね。市長なるのも、当選してトップに立つというのはそんな簡単なことではないと思うんですけれども関市、日本の地方行政というのは幅広なので、いろんな範囲の、ゴミの問題から消防とか上下水道とか観光とかまあ福祉もそうだし学校もそうだしね。多分世界の中でもトップクラスに地方自治体がいろんな仕事をになっていくといわれて、ちょっと多分世界全体とは特殊なケースかもしれないですね、ここまでになっているというのは。その分、市長というのもケアしなきゃいけない範囲が広くなって、年代若いから、って言い訳できないのでね、手をあげたけども、やっぱり自分自身も完璧じゃないので、いろんなことを言われるし、当然選挙で現職の人と戦ったので、まあいろいろ言われる、ネットの世界も含めて。で、自分が悪いところも、反省すべき点もあるし、あることないこと、まああることは書かれてもしょうがないんですけども、ないことも含めて、ある意味選挙の戦いなので、いろいろ誹謗中傷というか「あいつは、尾関は、ああゆうやつで、あんなやつはだめだめだ」っていうのはたくさん書かれたり言われたりするわけなので、苦しかったかなあ。あんまり普段そうゆうこと言われないので、生活していくだけだったら。選挙でたとしても、それも含めてが選挙なのでね、やっぱそれが大変といえば大変だったんですかね。

 

———どうやってそれを乗り越えましたか?

 乗り越えたっていうふうでは、いっぽうで批判もいろいろする人もいるんですけれど、応援をしてくれる人もいるので、自分だけの力というよりは、周りの人が支えてくれて、乗り越えて・・・選挙自体もそうなんですけどね。で、たまたま選挙で勝って今こうしてますけど、自分の力も0ではないかもしれない。当然、立候補するというのは自分自身なんですけど。それ以上、大部分はほんと周りの人の助け、なので、乗り越えられたというのは周りの人の助け、ですよね。

 

———今現在関市に対してどのような思いではたらいていますか?

 最初にいった通り関市のために、好きで働きたいと思っているので。16歳の時にそうなりたいと思った気持ちで、今の44になるんですけど、やっぱり30年近く経ってもそうゆう気持ちでやれているのでありがたいとか、恵まれてはいますよね。思いとしては変わってないです。単純な、難しいことは考えないので。単純な思いで今もやってますね。

 

———関市の教育についてどう思いますか?

 小学校とか中学校の子たちに話をする機会があるときは、関商工なんかはたまにありますけど、自分自身が高校時代に夢というか目標を持って・・・それにそのまま・・波はあるんですけど、山があって谷があるんですけど最終的にはそういうものを自分で持っていて今こういう立場に実際になったと思うので、当然夢や目標を持てば100人が100人叶うわけじゃなくて、プロ野球選手になりたいと思っても何十万か何百万に一人の世界なので、必ずは実現できないんだけど、必要十分条件ではないんでしょうね。でも、なれたらいいなとかいう思いだから多分自分の夢って実現できなくて、私も、根拠ないですけども、「必ずなる!!」って思ってたので。なると思っていてもなれない人の方が多いかもしれない。だけど、夢や目標を叶えることがもしできたとしたらその人の条件っていうのが絶対に自分でそう思っていた人だと思うんですよね。ぜひ関市で今学んでいる育っている子供たちには100%叶わないかもしれないけども、夢や目標を持って自分で進んでいくという子供が一人でも増えればいいなと思って自分自身を振り返って思っているので・・・そういうことを導ける先生が一番いいですよね。さっきいろんな経験が今自分にとって生きているんだという話をしましたけれども、学校の先生だけじゃなくて市役所でも職員でもそうですしみんな一緒なんでしょうけど・・ま、勉強はしなきゃいかんですよね。専門でもってやるんですけどそれだけで人を教えられるかとか人間の幅みたいな話だと形じゃないので、なんかで測れるわけでも、点数化もできないんですけど、子供ってそういうことわかると思うんですよね。この人はこうあるべきだって話をしたときに自分自身がほんとにそういう生き方をしてきた、乗り越えてきたんだったらこういう生き方すべきだって時に伝わると思うんですよね。でもいっぽうで割と勉強だけしてきて市役所試験もそうですけど、試験だけ通ってきてこうあるべきだって話をしても別に、そうそこまでチャレンジしたわけでもないし、それなりに勉強できて大学行って、市役所職員の試験受けてるかもしれないけれどそういう実体験とか自分自身の生き方がないと多分そこが薄くなっちゃうと思うんですよね。だから、たいへんなことではあるんですけれども、いろんなことに自分自身もチャレンジをするべきだし、自分自身の幅を広げるように意識をすべきだし、人に対して何かを言おうとか伝えようとかしたときに、大変だけども自分自身がそういう先頭に立ってというか背中で示してないと言うこと聞かないような気がするんですね。小学校くらいは割とまだだまされるとこもあるかもしれないけど、自分自身を振り返って中学高校になると先生のこと、だいたいわかってくるでしょ。偉そうに、生意気だったかもしれないけれど、高校生くらいになってくると偉そうに言っててもあんた別にたいした生き方してないよね、ってほんと生意気ですよね。私やっぱ思ってたんですよね。で、ちょっと外れてるかもしれないけど学校のなかではあまり地位が高くないかもしれないけれどほんとに何かをかけてやってきた先生というのは伝わるし、そうゆう人は今でも恩師、ですよね。44になっても、今でも頭上がらないっていうか・・・だからそういうことなんだろう思うので・・なかなか大変ですけど。先生になろうというときに自分自身を高めていくってことなので、頑張ってください。

 

———お話を聞いていて、高校の勉強よりも大学での経験のほうがあとから役に立ちますか?

 高校のときの勉強も大切やったと思います。直接は今、あのときやったあれが生きてるっていう話はないんですけど、学校の勉強もいろんな考え方を学んでいると思うので、その意味では人間の幅というか、単なるテストとか、もちろん勉強でもね、ある意味あったんですけどね、大学入試があるので。そうじゃないと自分でそこまで理科とかあまり興味がない、苦手な数学とかに勉強したかというと、やってないですよね、自分の好きなものだけ勉強してる人だから。あとは、国語、本を読むのが今でも好きで、昔から割と点数は良かったんですけど、それだけ、勉強したので。あとは日本史が好きだとか、英語はほどほどだみたいな感じで。物理、化学・・・数学・・・みたいな感じでした(笑)。多分偏ってしまったので、幅という意味では、最低限、一通り理科も数学も、今はほとんど忘れてますけど、やったというのは大事だと思いますよね。目に見えてないかもしれませんけど。大学入ると一般教養みたいなのはありますけど、それ以外割と専門性に入っていくというか自分の好きな勉強ができている訳なので、それはそれで大事だし・・・私なんかお酒も好きなので、そういう場でいろいろ話したことも面白かったし、よく喧嘩したり言い合ったりというのも今はなかなかないですけれど、大学時代はみんな熱いので、話をしてね、議論が熱くなることも、そういうのも一つの経験というか、今やっちゃだめだけれども、市長が、「おまえ!」って(笑)。海外も大学1年生の時に先輩が連れてってくれたんですけど、シンガポール、マレーシア、タイ、インド。2年生の時はサークルの合宿で台湾に行って、そのあと自分一人で中国に行って、春休みチベットに。卒業旅行が韓国とベトナムあたりですね。今、市長になって台湾のお客さんが来たりして、そのときに「大学の時に台湾に行って・・」とか、こないだ5月に観光のPRでタイに行ったんですね、タイとベトナムの二カ国に行ったんですけど、どちらともタイは大学1年の時に行ったし、ベトナムも卒業旅行で行ってるのでやっぱ向こうの人たちと話したときに「20年ぶりなんです」とか、「24年ぶりなんです」とかいう話するだけでも結構それぞれ話ができて、ベトナムなんかは中部学院大学が協定を向こうの大学と結んでるので、こちらにも何人か来てくれたんですかね。やっぱそうゆうときにベトナムに行って大学卒業するときはホーチミンとか行きました、みたいな話をすると向こうの学生さんもすごい喜んでくれるので。当時は海外行って将来市長になってなんか役立てようみたいなことは一切なくて、ただ単に行きたいから行ってただけなんですけども、どっかでそういういろんなことをやっておくと、つながってくるというか、「ああ、面白いもんだなあ」と市長になって思うんですよね。だから、なにがどうつながるかはわからないので、とりあえず今日やることでも何でも、とりあえずやっとく、みたいな、そんなんがあると、ま、無駄なこともあるかもしれないですけど、いくつかはつながってきて、「やってよかったなあ」と思うことが大学時代振り返るとあるので。海外行ったというのは一つの例なんですけどね、大事かなと思います。留年さえしなければ(笑笑)。だいたいいつも留年がネタになってるので(笑)。

 

 

———貴重なお話をありがとうございました。