佐藤 真紀 (困難さを抱えた子ども若者のサポーター)

 

1984年大垣市生まれ。24歳の時に名古屋市の学童保育で指導員として働き始めたことが福祉へのキッカケとなる。学生時代より政治にも関わり、自身も市議会議員選挙に立候補(次点落選)する経験もある。現在は若者自立支援を行うNPO法人の理事、事務局長として困難さを抱えた子ども・若者のサポートを行う一方、社会的な孤立や貧困の連鎖に対する啓蒙活動として、大学や福祉事業所にても講演を行う。妻と2人暮らし。

 

 

--20歳のころはどういう思いで過ごされていましたか?

20歳のころは2004年ですね。あのころはまだ学生をやっていて、同時にNPO活動もやっていたました。どういう思いっていうと、漠然としすぎて返答に困りますが、それなりに苦しかったです。

 

--何が苦しかったですか?

 勉強も地味に難しいし、プライベートでもうまくいかず、20歳から21歳くらいまで、そんな時期でした。

 

--20歳のころ、これをしておけばよかったなと思うことはありますか?

しておくべきことって、実はないと思っています。後から振り返れば、後悔って誰でもすると思っているから。その時、その時を一所懸命生きているだけです。

しておけばよかったと言う訳ではないですが、やっていて良かったと思うのは何個かあります。それは、自分の心棒、生き方の指針をどうやって作っていくか模索する作業。それが大体18歳から24歳くらいの時期。

 

―-根っこはどのように作っていったのですか?

 普段生きていて、その中で自分を掘り下げる作業です。例えば、四書五経(中国の古典で、儒教の経書)を読み込んで、その時代から現在はどうやって成立してきたのか、今の社会全体はどう動いているのかと、内面を掘り下げつつ、社会との関係を考えていました。

 

--そのころにですか?

 1617歳くらいからですかね。

 

--1617歳ですか?

当時は志門塾の生涯学習部に通っていました。その時に出会った先生の影響が大きいです。

そんな憧れの人が周りに何人かいたっていうのは、人格形成の過程ではとても大きかったかもしれないですね。

 

--憧れの人は持っておくべきですか?

べきとは思わない。「~べき」って拘束性があり、さっきの話にも戻るけれど、それは自分自身で考えていく事。機会があれば、いても良い程度だと思います。「~すべき」と、どう生きていくかなんて、誰かに決められて行うものではないよね。

でも、人生って、いくつもいくつも転機の要因、機会があると思う。だから子ども仕事関わっているのも、貧困問題に関わっているのも、それだけじゃない。それもなんですよね。

だから「~べき」ってことが端的には出てこないです。それだけそれをしていれば良いってわけじゃないってから。

 

--NPO活動っどういうことをされていたんですか?

 コミュニティFM局が岐阜でも2002年にできて、たまたま先輩からの声掛けで参加したのがきっかけでした。番組を作っている中で、たまたま秋元祥治(:NPO法人G-net 代表理事)さんや、蒲勇介さん(:ORGANデザイン室代表、NPO法人ORGAN理事長)といった、岐阜に根差した活動をしてるい同世代の人に出会って、面白い人いるじゃんって思いました。

 

--どういうところに惹かれたんですか?

 直感。そのバイタリティがほしいなって思っていた時期もありました。当時は周りの色々な若者が集まっていて、雰囲気としてはボラネット(ぎふ学生ボランティア・地域活動ネットワーク推進協議会)のような感じかな。サークルみたいな感じで、岐阜を活性化させようってことで、深夜の年越しカウントダウンイベントをやってみたり、フリーペーパーORGANを作ったりと、惹かれると言うより、単純に楽しかったよ。

大学以外の社会との接点ができたのは、自分にとって大きかった。

 

--社会経験ですか?

 社会経験とは思わない。逆に社会って何だと思いますか?

 

--バイトとか大学以外での活動とか…。

私も当時は同じように考えていたと思います。大学は社会じゃなくて外で働いている大人が社会だとかね。でも、それぞれが分断されているのではなく、すべて連続性のあるものですよね。企業で働いている人も、家に帰れば家族があったり、社会と自分はどの立ち位置でも分断なんてできない。

 

--当時こうなりたいとかあった?

 何も見えなかったですね。漠然といくつかはあった。先が見えなくて、精神的につらかったです。大学後どうしようとか、ここでくすぶっていていいのかとか。

大学外で活動していたから、学校に戻ってきた時のギャップって大きくて、そういったものが苦しいっていうのもありましたね。今思い返せば、じっくりと勉強できる良い環で、もったいない事だったとは思うけれど、当時は必死だった。

 

--つらいときはどうやって乗り越えていたんですか?

 乗り越えてはいないですよ。乗り越えるのではなく、受け入れる。

 

--今では生活困窮の方々の支援をしているとのことですが、どういう経緯でそうしようと思ったのですか?

20歳の頃がテーマなので・・・それこそ20歳の時は生活保護制度のせの字も知らなかった。憲法も法律も学校で学ぶ以上には知らなくて。

 24歳の時に名古屋市の学童保育所で指導員として関わった。指導員として生活している中で、虐待と思われるケースや、生活保護世帯の方に出会ったのもキッカケのひとつ。学童って不思議な空間で、士業や上場企業の社員さんなど一般的に豊かなと思われがちな世帯もいれば、就労が難しく生活保護を受けている人の子どももいて。ある程度、学力や親の資産状況で線引きがされてしまう大学や院と違い、小学校や中学校は、それこそ社会の縮図。学童保育は、共働きなどで終業後の保育に欠ける子どもたちの生活の場だけど、小学校や中学校と同じく、まさに地域が凝縮された場なんです。学校の教員でもなく、地域で生まれ育った住民でもなくと言った立場で、良い意味での参与観察ができた期間でもあります。そうした冷静な視点と、保護者の方のお宅に訪問したり、一緒にご飯を食べたりと、生活の場へ入れて貰い、一緒に子どもと向き合う機会を得られたこと、一人ひとりの生き方を見せてもらったのは、今の仕事にとても大きな要因となっている。

名古屋では東海中学や滝中といった私立への中学受験をする子どもも多く、学童に来ている子どもも半分は受験をしていた。子どもの勉強、生活を見ている中で、学力だけでなく行きたくともいけない、受験できない世帯を見てきた。親の資産や、状況によって機会が奪われていくのは、ちょっとおかしくないかって疑問に思っていた。そんな思いを抱えながら、地元へ戻った。2010年の冬に地元へ戻ったんだけど、たまたま立ち寄ったNPO法人(NPO法人仕事工房ポポロ)で理事長から、困難さを抱えた子どもたちの学習支援を始めたいと聞き、当時のスタッフと一緒に立ち上げ、運営に携わり、学習支援のほうは今に至ります。丁度、2011年の春にあった選挙で落選したのもあって、子どもの学習支援を続けながら、生活の為に別の仕事をしつつ、私自身も先を考えていた時期でした。学習支援に関わる中で、子どもだけではなく、複合的で多層的な困難さを抱えた世帯がとても多く存在する事や、制度の網から滑り落ちる方も見てきて、学童時代以上にもどかしかった。そんな時、2012年の春からパーソナルサポート事業や、電話相談を立ち上げるとの話が持ち上がり、今の仕事に繋がっています。

 

--いろいろな要因をもとに、やりたいことを見つけていくってことですか?

 初めのほうの話にも繋がるけど、やりたいことを見つけると言うよりも、ソレに気が付いてしまったから、やらざるを得ないパーターンが多かった。目の前で困っている人が居て、誰も何もしなかったら、自分でできる限りはやるしかないと。そこに少しでも自分のやりたいなっていうのが合わさって今になっている。「やらなきゃ+やりたい」で成立している。

政治に関わりたいと思うことでも、元々接点が多くて、母方の祖父が20代のころに村長やっていたりとか、伯父が立候補して落ちていたりといった話を聞いていた事もある。大垣についても、生まれ育ったまちと言うだけでなく、江戸初期から現在まで大垣地域を支え、作ってきた人たちが身近に存在し、祖父らには会えなくとも書物で感じられているのも要素のひとつ。立派になりたいとか「~だからしなきゃ」ではなく、そうすることが私にとっては自然。だから個々が分断されてるんじゃなく、全部つながって今があるって感じ。特別な人たちが特別な事をしている訳じゃないと思っているのもある。

 

--最後に座右の銘を聞いてもいいですか?

特には無いけれど、強いて言えば「なんとかなるんじゃない」。

 

--楽観的にって事ですか?

 楽観的ではないです。何とかするしかない、何とかするよとの意味を込めて、「何とかなる」ってことです。

 

--色々な話をしていただいて、役立たせていただきます。

 何かの役に立ててもらえればうれしいんだけど、このインタビューをした事で視野を狭めて欲しくっていうのはあるので、参考程度にね。すべては繋がるけど、それ一つじゃないよねって事だよね。01じゃないよって。

 

-貴重なお話を本当にありがとうございました。