野田 聖子(衆議院議員)

196093日生まれ

福岡県北九州市出身

上智大学外国語学部卒業

選挙区:岐阜県第1区

19874月に初当選し、郵政大臣や消費者担当大臣、自由民主党総務会長などを歴任した。


-----では早速ですが、二十歳のころ、何をされていたのかお聞きしてもよろしいでしょうか。

 私は、大学生でした。上智大学、当時は外国語学部比較文化学科というところに、通学していました。なぜそこかと言うと、さかのぼること高校の時に、アメリカの、ミシガン州に留学しまして、本当はそのままアメリカの大学に進もうと思っていて、当時はTOEFLではなくて、SATという大学受験の予備テストみたいな、そういうのを全米で高校生が受けるんだけど、その成績を元に、まぁその私だったらミシガン州の学校に行こうということで方針は決めていたんだけど、家の事情があって、やっぱり急遽帰国してほしいってことになったので、そうなると、もう、選択肢は二つしかなくて。一つはもともといた高校に一学年落ちてやり直すか、または、そのSATというアメリカの大学受験の資格を受け入れてくれる日本の大学に行くかということで、選択肢は二つあって。私はやっぱり、であればアメリカの大学に行きたかったので、そこと同じような環境のところで学びたいと、当時そのSATという資格を認めてくれてた大学は上智の外国語学部と、早稲田の国際学部と、ICUぐらいしかなくていろいろ回った結果、上智大学がいちばん良かったので、実は9月に、私9月3日が誕生日なんですけど、大学一年生になったのは9月入学なので、アメリカと一緒で、9月1日だったので、17歳で大学に入学したという変わり者でございます。ただそのあとはもう、普通に、大学生やってたんだけど、ただ違うのは、アメリカの大学のメソッドだったので9月入学だったりすることと、上智大学というのは、実は四谷キャンパス、四谷っていうところにあるんですけど、私たちはアメリカの大学のシステムをとっているので市ヶ谷という隣の駅にキャンパスがありました。で、そこにずっと通っていて、いろんな制度が少し違っていて、学費なんかも年間いくらか払うでしょ。

 

 

-----そうですね。

 私たちは一単位いくらって払うの。だから落とすと大変なことになるからみんな必死で勉強していました。とか、あと授業は全部英語だった。アメリカの大学が日本にあるということだったので、私も日本人なのに、第二外国語が日本語で、英語で勉強するから、全部の科目は英語でやったので、源氏物語なんかも”the tale of shining prince”というタイトルで学んだの。そんな最中でした。ただ私はこういうインターナショナルスクール、カレッジに行ってたけど、幸い四谷キャンパスに日本人がいっぱいいたので、その人たちとも仲良くなれたんだけど、仲良くなれたのは上智大学にはアルカディアという競技スキーのけっこう硬派な同好会があり、元々スキーをやっていたので、スキーやりたいなと思って、基礎スキーか競技スキーかって分けられたときに、ずっと基礎スキーだったから競技スキーやってみたいなということで、でも体育会系はしんどい、勉強との両立ができないので、アルカディアというのを紹介されて入った。だから二十歳の頃はもう休みは全部スキー、だから春休み、冬休みは全部スキー場にいました。合宿の前後は全部アルバイト、白馬っていうところに、たぶん日本生命だと思うんだけど、リョウガっていう福利厚生の、社員がスキーに来るときのロッジ、のまかないとかやってた。

 

 

-----アルバイトでもそういうスキー関係のことをしていたということですか。

 そう、ずっと。ただ、たまたま帰国子女で英語ができたから、英語の家庭教師もやっていて、でもそれは子供だけじゃなく、主婦にも教えていた。

 

 

-----高校を途中で退学されてアメリカに留学されたとお聞きしましたが、どういった理由で留学されたんですか。「行きたい」という強い意志がお有りになったのですか。

 あの、はじめに留学ありきではなくて私が行っていた高校はとてもいい学校で、ずっと小中高一貫教育で、一学年3クラスしかない、すごくアットホームな学校だったのですが、たぶん私は他の人よりもエンジンがでかくて、そういう安定調和の中に居づらくなってしまって、今の学校が悪いわけじゃないけどなんか物足りないっていう中で親と相談して、だったら当時はまだあまり身近でなかったアメリカに留学したらどうだという話になりました。だけれど親は厳しくて、「ただ、お金は出せないぞ」と。だから今、AFSYFUっていう二つの機関があるんだけど、AFSっていうのは難しい。YFUっていう試験を受けて、いったんですよ。

 

 

-----若いときからそういう変わったことがしたくて

 そう、変わった子だったの。

 

 

-----今政治家でいらっしゃいますが、最初はホテル従業員に就職されたと思うんです。いつ頃から政治家を目指すようになったんですか。

 よく、政治家ってもう若いうちからそういう志を持って政治学を学んだりとかいう流れがあるんだけど、私は全く政治に無関心で、今時の若者以下の無関心だったと思います。一つは祖父が政治家だったけど、やはり一緒に暮らしてなかったのでよくわからなかったことと、私の父は政治が嫌いだったから。やはり祖父の政治を見ていて嫌いになってしまって、そういう人って結構いるんですよ。父は普通のサラリーマンだったから全く家の中に政治を持ち込まない人だったので、私は正直、(政治には)おじいさんがそうであったけれども、政治にあえて関心を持たない家に育ったの。だけど、そうはいっても身近にそういう人がいることで普通の人にはできない経験、たとえば私は二十歳になった頃かな、祖父の最後の選挙のアルバイトをしました。ウグイス嬢とか、ポスター貼りとか。なんか人手がないから手伝ってと言われて。

 

 

-----そこで初めて政治の現場に関わったわけですね。

 末端に触れたって感じね。政治家に触れたんじゃなくて、選挙のやり方に触れたって感じ。作業員みたいな。でもね、その選挙で祖父が落ちちゃったんだよね。だからやはりそこでの経験というのはいいイメージではなかった。だからそれはそれで二十歳くらいだったけどすっかり忘れていて、自分はアメリカに行った経験と語学を生かせる職に就きたいということで帝国ホテルに入ったわけだから、二十歳の時は全く政治に興味関心がなかったし、選挙に参加していなかった。今時の若者が偉いと思う。私たちはまだいい時代だったから、そんなに政治に関心を持たなくても世の中に問題もなかったし、それにネットもなかったから、真実ってあまり伝えられていなくて。

 

 

-----一部で政治をやってるという感じですか。

 私たちの若い頃は経済的に良い時代だったので。今は年金の問題とか領土の問題とか言われているけど全くそういうことってなくて。私が唯一記憶しているのは子供の頃オイルショックというのがあったんだけれど、それはトイレットペーパーがなくなったりとか、洗剤がなくなったりという時代だったので、それは政治的には大騒動だったみたいだけど、私は若かったのでよくわからなかった。だから政治家に全然なりたいと思ってなったんじゃないんですよ。

 

 

-----今は若人が選挙に来ないとか政治に関心がないみたいなことをよく聞くんですけど、どう思われますか。

 あのね、私もそうだったからいいと思うの。ただ、私の若い頃と今のあなたたちとでは、相当国が悪くなっている。その悪い負荷を受け止めるのはあなたたちなの。だからそれに関して私はまじめにやっておいた方がいいよと思うの。今決まることは、十年後、二十年後先の日本の姿だから。私の時は皆さんくらいの時に何もしなくても税金はガバガバ入ってくるし、仕事もいっぱいあるし、何の悩みもない時代だったから若い人たちが政治に関心を持たなくてもどうにか回っていた。だから私はそうやって来てしまったんだけど、今私が政治をやっていて思うのは、問題山積で、特に若い人たちにその問題が集中しているから、考えた方が若い人たちにとっていいと思う。なんかお値打ち感というか。

 

 

-----今野田先生がもう一回僕らと同じ年になれるとしたら、やっぱり政治には積極的に参加したいと思いますか。

 いや参加しておかないと自分が損すると思う。

 

 

-----そうですよね。話は少し変わるんですが、一人暮らしとかされてたと思うんです。先ほどは悩みなんかないとおっしゃってましたけど、若いとき特有の悩みというのは何かあったんですか。

 私も二十歳の頃は大学のアルカディアってサークルで出会った男性、彼氏がいて、やっぱりそこが中心だったよね。割と今は付き合いが淡泊なんだって。私の頃は毎日一緒じゃなきゃ嫌って感じで、それがすごい幸せで。学部は、向こうは経済学部で私は外国語学部で、キャンパスも違ってたから待ち合わせるのに当時は携帯もないし、それで家で電話して、学食で何時に待ち合わせとか、そういうのがすごく楽しい反面、連絡取れないこととかが悩みでもあったよね。

 

 

-----今だとやっぱりスマホをみんなが持ってるので待ち合わせにはすごく便利で簡単ですね。

 待ち合わせの時間に一時間経っても来ないのはすごい頭にきたりとか、ないでしょ今は。スマホですぐに連絡とれたりするから、そういうなんか、青春してたなあ。常に、二十歳の頃の私にはその当時の最愛のボーイフレンドがいて、何をするにも一緒っていう。

 

 

-----それは大学に入ってからですか。アメリカでは出会いはありましたか。

 もちろんいっぱいあったけど、でもいちばん長く付き合ったのは大学入ってから。卒業するまで付き合っていたから。大胆に恋愛した方がいいと思うよ。なんかみんな最近はさっぱりしすぎてる。三ヶ月くらい会ってないんですっていうカップルもいるんだもん。信じられない、毎日一緒にいたいと思わないのかと思うけど、これはスマホのせいかな。LINEとかで会ってる感があるのかな。

-----それが原因の中の一つではあると思います。

 やっぱり私たちはそんな通信手段がなかったから、会ってないと不安だったという感じ。

 

 

-----いちばん大きな悩みが恋愛だったということですね

 そうなの。面白くてね、うちのアルカディアというサークルは硬派な体育会系もどきの競技スキーのクラブだったから、クラブ内の男女交際は禁止だったの。それを破った第一人者が私。

 

 

-----おおー。でもそれはちょっと厳しいですよね。大学なのに。

 昔はそういうの結構あったのよ。あのときの自分の人生の中での優先順というのは、免許とっててドライブするのが好きだったのね、とにかく車大好きで私。そのボーイフレンドとも、私は自分の車を持ってたので、ボーイフレンドが運転したり私が運転したりして、優先順位でいうとボーイフレンドがいちばんで、その次が勉強、単位落としたら大変だったからね。特に英語だったのもうキャッチアップが大変で、日本語だったらいいけど、たかだか一年くらいの留学ではそんなにボキャブラリーは増えてなくて、とにかくしょっちゅうレポート書かないといけなかったので、結構大学で勉強したの。思いつくままいうと、勉強があって、その次にやっぱり大切だったのはスキー。アルバイトで貯めたお金で競技用のスキー、競技用のスキーって高いじゃない。当時はロシニョールっていう板がすごい良くて、今はないと思うんだけど。それが買いたくて、当時で9万円くらいするの。わあ高いなって、でもラングの靴とか、とにかく、下手なのに道具だけはワールドカップの選手みたいにそろえたいの。フランツクラマーっていう大学校の選手が大好きで、その人の道具と一緒にしたいみたいな、そんなことばかり考えていました。

 

 

-----アルバイトで貯めたお金はスキーに使ってたんですか。

 そう、全部スキー。

 

 

-----ファッションなどには興味がなかったんですか。

 私は、全然ファッションを気にしなくて、デニムと、夏はTシャツ、冬はトレーナー。いつも同じ格好で、だからスカートってはいたことあんまりなかったんだよ。だから、お金がかかるのは車と、スキー。

 

 

-----お酒とか飲まれなかったんですか。

 飲む。飲むよ。でも、だいたいスキーの仲間たちと新道横町っていう、四谷にある飲み屋街がすごく安く飲めるところで、なんか怪しげな薄めた日本酒みたいな。でもお金がないからみんな、本当に贅沢できなくて。

 

 

-----今も日本酒党の幹事やってらっしゃいますよね。

 そうそう、会長だよ。今は国会議員の中の会長。強いんだもん。郡上もおいしいお酒あるよね。美濃加茂もあるよね、有名な。前の市長さんの実家。岐阜はね、お酒のメッカだから。いろんなおいしい酒蔵があるよ。

 

 

-----まだ18なので。

 そうだね、もう少し我慢だね。あとはね、あなたたちには考えられないと思うんだけど、私が学生時代の時は麻雀が流行っていて、大学のそばには雀荘がいっぱいあって、だいたいみんな授業が終わった後とか時間があるときは男の子たちはみんな麻雀行くの。すると私のボーイフレンドも麻雀が好きだったから、講義が終わった後、必ず行きつけの雀荘があってそこでやってた。今は少なくなったよね。面白いんだけどね。うちはたまたま父が麻雀好きだったから、家に雀卓があってね。それで私のボーイフレンドや仲間たちみんなが家に来ては、麻雀をやりに来るわけ。なぜかというと私の母もやったりするので、ご飯ごちそうになれるからというのもありまして。あの当時初めて吉野家の牛丼を食べました。お持ち帰りで、誰かが買ってきてくれて。今日麻雀やるぞっていうと吉野家の牛丼をお持ち帰りで。あの頃はつゆだくとかは全くなくて、そのままの牛丼だったな。

 

 

-----読書や映画もお好きということなんですけども。

 でも最近は時間がなくて読めなくなってしまって。でも好きなのは重松清とかね、あと最近は、なんでも読みます。「コンビニ人間」は面白かった。

 

 

----賞とった先生のですね。

 そうそう。だいたい賞とった本は読もうと思ってるの。

 

 

-----僕も結構本が好きで、特に推理小説なんか読んでます。東野圭吾とか。

 スキーのなんかお話もあるよね。あ、あれ見た、「君の名は」。

 

 

-----すみません、僕見てないです。(小池)

     見ました。(木村)

 面白かったよね、あれ。「シンゴジラ」は見た。

 

 

-----見てないです。(二人)

 面白いよ。あれでもね、私の業界の人は政治の話だから突っ込みどころ満載で、国会議員もいっぱい出てくるから面白いですよ。だから、ゴジラが出てきたさあどうしようって感じ。

 

 

-----映画に行かれるときはお一人で行かれるんですか。

 「シンゴジラ」は夫と行きました。すごい揺れる4Dっていうのかな。水が出てきて、私には、びっくりさせられて映画に集中できなかった。だからゴジラが出てくるシーンでグラグラ揺れたりとか、ゴジラがギャーっていうと水がシャーって出てきたりとかで、そっちに気がいってしまう。「君の名は」はね、台湾に出張に行ったときの飛行機の中で見ました。私は国会の映画議員連盟の会長なの。

 

 

-----個人的なことなんですけど、僕英語学科に所属してて、留学にも行ったんですけど、世界の見方とか価値観が変わりましたね。やっぱり若いうちにそのような経験をすることって大切ですか。

 うん、知らないと怖いじゃない。食わず嫌いとか、知らないとなんかもう何でも自分の知らないことって怖かったりするじゃない。だから、アメリカ人だって知らないと、トランプさんだって怖いなとか思うけど、私は一年間ミシガンっていうところで、日本人のいないところにいたけれど、アメリカ人も人間だなと思って帰ってきた。ただ受ける教育とか宗教やバックグラウンドでこんなに変わってくるんだなという実感はあります。

 

 

-----やっぱり授業を全部英語でっていうのは英語の授業でしか受けられなくて。

 私でもね、英語ってカラオケと同じだと思っているの。私ももうそんなにしゃべれない、使ってないから。カラオケは、好きな歌を何度も歌えばうまくなるでしょ。英語も、毎日使ってればたぶんしゃべれるんだって。いちばんはその英語を使う国の人を恋人にする。それか友達に外国人をあえて選ぶ、必然的に英語を使うから。勉強じゃないんだよ、英語をしゃべるということは。生活の道具だからそう思った方がいい。私は16,17でアメリカにいったんだけど、今でも英語しゃべる時って頭に辞書出てこないの。だから反復練習じゃないけど、”How are you?”って聞かれると「あ、こんにちはって聞かれたんだな。じゃあこっちもこんにちは=How are youだったな。」っていう風に私の頭の中は英語に切り替わっているの。知識というよりは運動神経、反射神経かなと私は勝手に思っています。

 

 

-----今現在のお話になるんですが、政治家になられたときに、いちばん苦労したなと思うことは何ですか。

 今ではそうないんだけど、県会議員になったのが私26歳なんですよ。あなたたちとあんまり変わらないでしょ。数年先のことだよ。だから帝国ホテルで四年間勤めた後、全く政治家になろうという意思がないまま、岐阜の支援者に引きずられる形でここに来て、それが政治家のはじまりはじまりで、右も左もわからなくて、私の場合は政治家になろうって意思がなかったので、依頼を受けてじゃあできる限りやりますって感じだったから、まさかこんなに30年も続くとは思わなかった。だから続いたのかもしんない。だからこそ苦労っていうとやっぱり最初は岐阜の言葉がわからなくて、東京で学んで、東京で仕事してきたからそういうところから。あとはこっちに同級生がいないので落下傘って言われたりとか、あとは七光り。おじいさんがいたからとかそういうことを言われて返せない悔しさ、全くその通りだから。その後は29歳で国会議員の選挙に出て落選して、そうするとみんな手のひらを返したように意地悪になって、バッジをつけてたときは先生先生っていってた人が、酔った勢いで馬鹿野郎と言ったり、とっととどこかにいってしまえとかよく飲み屋で言われました。あの人一生懸命応援するって言ってくれたけど嘘なんだと、人の裏切りというのを29歳くらいの時に経験しました。32歳からは国会議員やっているんだけどね。まあ苦労するのが当たり前だと思っていたからそんなに深刻に受け止めてなかったんだけど、とにかく女性が少なすぎて、ロールモデルもないし、こういうときに何を着ていいのかわからないみたいな、相談する相手がいないのがいちばん大変。この会議にどんな服着ていったらいいのかとか、男性はスーツ着ればいいけど女性はいろんな服装があるから、ズボンはいていいのか、スカートなのか、ジャケット羽織らなきゃいけないのかワンピースでいいのかとか、全くもう、そういうマニュアルがなくて、毎日大変だった。

 

 

-----やっぱり女性だからって揶揄されることも多かったですか。

 あのね、37歳の時に郵政大臣になったの、今で言う総務大臣、そのときにすれ違った先輩の議員に、「俺もスカートはけば大臣になれるのかな」って、すれ違いざまに舌打ちもされたり、「女はいいよな、すぐ大臣になれて」とかね。まあそうなんだけど、そういうこと言われて面倒くさかった。

 

 

-----さっき岐阜に立候補されたのは依頼をされてということだったんですが。

 だから普通の人とは違うでしょ。普通は出たいから出してくださいっていう感じだけど私はもう本当に自分たちが支えるから、若い女性を出したいといって、当時は若い女性って言ってもなかなか手を上げてくれないんだけど、やってくれないかと頼まれて、私でよければと。

 

 

-----政治の勉強を始めたのも

 26歳から。議員になってから。でも、振り返ってみると30年もやっていると何でもできる。

 

 

-----やっていく、経験していくことが知識を蓄えることにつながるんですね。

 もちろん。やはり、いろんな仕事を、今は頼まれている仕事は何でもできるけど、若い頃は半分以上できなかったと思う。実はこうだというって問題があってと聞かれたときに、あ、これはこうするんだなってストーリーが作れるの。受験勉強と一緒よ、いっぱい設問解いて。

 

 

-----ではまたプライベートなことをお聞きするんですけども、お子さんを出産なさったということで子育ての苦労をお聞きしたいのですが。

 私は産んだのが遅いじゃない。普通25,6歳で産むっていうのがなんとなくイメージがある中で私は50歳だから、体力的に大変っていうのもあったし、やはりこういう仕事をしているので、変な話、普通の男の人よりも仕事が大変なので、その仕事との兼ね合い、あとは、うちは重度の障がいをもっているので、私の仕事でちょっと預かってというわけにはいかない。たとえばうちの息子の面倒見るためには看護師の資格がいるとか、そういう子だから、家庭環境は大変かなって、でもあなたたちと同じで男の子産んだけど、すごいかわいい。あなたたちもかわいかったんだろうね、お母さん幸せだよね、大事にしてよ、お母さん。お父さんも。

 

 

-----はい。お子さんが生まれた時っていうのはカウンセリングだったりとか、今後どういう風に育てていくかなどで悩み持ったりしましたか。

 それは全然なかった。やはりもう年がいっていたから、仕事上いろんなところも行き来してたので、ただ、一つの問題は、命に関わる障がいをもっていたからすぐ子育てができなくて、二年三ヶ月くらい入院していたの、だからその間はNICUっていう集中治療室にいたりして、もう生きるか死ぬかというなかで育ってきたので、もう生きて手元に来たというだけで幸せだった。もうその子は来年小学生ですからね。

 

 

------産むという決心はものすごく強かったと思うんですけども。

 そうなの、なんかね、自分が親に大切に育ててもらったせいか、理屈じゃなくて自分の、なんていうの、人生は当然一人で生きてくものじゃないという思いがあって、家族、夫婦、私にとって家族っていうのは子供がいて家族っていうのが、成立するという、これはなんかそれぞれの思いよね。私の家族観。やはり結婚したら子供というのがあって、ただ今の夫と結婚したのはすごく遅かったからもう子供が自分たちではできないという中にあって、養子縁組も模索したんだけどなかなか見つからず、それがかなわずに、大胆だったけど卵子提供という形でアメリカの女性の卵子をいただいて、夫と受精させていただいて私が産んだという形をとってる。だから科学的には私の血のつながっていない子なの。でも、それでもやはり一緒に暮らしていくことが家族なので私の心のバランスをとってくれるには子供がいるって事が最高のコンディション。あとは子供が自分の力を引っ張り出してくれる、私の原動力だから。お母さんに聞いてごらん。子供育てるって楽じゃないんだから。だって、不条理の塊だから。たとえばその、大人だったら話せばわかるってことがあるけど、あなたたちが2歳、3歳の頃って話してもわからないんだよ、あれが欲しいとなるともうぎゃーって。そういうのを経験させてもらうと、自分に眠っている対応する力ってのが育ってくるじゃない。自分のパワーを、眠ってるパワーを引き出してくれるの。やっぱり愛するものを守ろうとする力ってすごく大きいと思う。

 

 

-----話が戻ってしまうんですけど、二十歳のちょうど誕生日の日って何されてたかおぼえていらっしゃいますか。

 たぶんその時の彼氏と一緒だったと思う。覚えてないなあ。わからない。でも絶対そうだと思うな。二十歳の時ほろ苦い思い出があって、やはり別々に暮らしてるから好きで一緒に暮らしたいと思っていても、当時はね、一緒に暮らすなんてのは不謹慎というか、ふしだらみたいな。でも本当に好きだから、結婚しようって話になったの、二十歳になって。たぶん二十歳になって間もなかった頃に、私の家は離婚して母だけだったので、テレビを見ている母の前に、私の彼氏が立ちはだかって「聖子さんと結婚させてください」って言ったの。でも運悪く、その母が見てたテレビというのが「チャーリーズエンジェルス」といって当時大ブレイクしてたドラマだったの。そしたら母が怒って、もしテレビを見てなかったら話を聞いてくれたかもしれないけど、大好きなテレビの前に立ちふさがった私のボーイフレンドが憎たらしくて、「あなたたちの話なんか聞いてらんないわよ。」って言われて、終わっちゃった。そんな思い出がある。「あなたたち学生同士で結婚してどうやって生活していくの。」とか言われて、二人で、今はお金がないから貸してください、と。卒業して就職したら返します、とか言ったら「そんな甘いこと言ってるんじゃないわよ。」とか言われちゃって。それでチャンチャンって感じ。でも、いい思い出だよね。

 

-----もしかしたらそこで今とは違う生活になってたかもしれないですね。

 そう。そのとき結婚できてたらね。この仕事には就いてなくて、普通のサラリーマンの嫁だったかもしれないね。

 

 

-----最後に、もう一度二十歳に戻れるとしたら違う道っていうのは何か想像なされますか。

 やっぱりアメリカの大学に留学したい。そこがいちばん後悔してるところ。やれなかった事というのがいちばん残ってしまうので、アメリカの大学に行くつもりにしてて行けなかったことというのはこの年でもまだ引きずっています。そして、医者になりたい。なぜかっていうと、やっぱり息子と接しているうちにお医者さんてすごい仕事だなと、だから二十歳に戻れたらアメリカの医学部に行っていて子供とかの小児科とかやりたいなと思います。生まれ変わったらそうしようと思う。