上田 崇仁 (愛知教育大学教育学部准教授)


-愛知教育大学教育学部で日本語教育を学んだのち、富山大学大学院人文科学研究科 日本・東洋文化論専攻にて修士号、広島大学大学院社会科学研究科国際社会論にて博士号を取得。

広島女子大学にて助手、徳島大学にて助教授・准教授に就任、2008年から現在まで愛知教育大学教育学部准教授に就任。

日本語教育学を研究分野としており、日本語教育の歴史についての研究、朝鮮半島における初等教育機関で使用された教科書の研究、外国人児童生徒の就学に伴う諸問題に対する実践的な活動を行う。授業では、日本語を母語としている集団と非母語の集団との接触の中で生じる問題を「同化」と「共生」という観点から検討している。

 


--20歳の時はどこで何をされていましたか。

 

私は愛知教育大学で大学生をしていました。日本語教育を学んでいました。

 

--上田先生はいつから日本語教育という分野を学びたいと考えていらしたのですか。

 

中学生の頃は裁判官や弁護士に憧れていて、法律の勉強をしたいと思っていました。ですが、高校生のときに、法律を使った職業は合法的に人の人生を左右できる職業でもあるということに気が付き、法律を扱う職業を目指すことはやめました。

そのあと、何が良いのだろうと考えた時に、当時の高等学校の英語の先生がテストの解答が授業で教えたものでなかったり、テストの範囲でなかったりしても、意味が通じればOKにしてくれる先生がいました。今まで私は、習った文型や、単語を使って答えなければならないと考えていましたが、そうした先生の指導を通じて、言葉っていうのは通じることが第一だということに気づかされました。

そのときから言葉について興味をもち始めました。さらに、私が大学受験当時はちょうどバブル経済と留学生十万人計画スタートの時期で日本語学習がブームになっていました。私はそのブームに乗って、日本語教育を学ぶことのできる愛教大を受験しました。高校三年生の受験当時は、どこの国で日本語を教えたいとか、具体的な思いや目標はなく、ただ漠然と食べていければいいなとだけ考えていました。

 

--上田先生は植民地時代の朝鮮半島における日本語教育について研究をなさっていますが、朝鮮半島に興味をもちはじめたのはいつ頃からですか。

 

1988年のソウルオリンピックをきっかけに興味をもち始めました。また、1987年からNHKがはじめて朝鮮語のテレビ講座をはじめましたが、それを見ながら面白そうだなあと朝鮮語に興味をもち始めました。また、対照言語学という講義をとっていた時に私は中国語よりも朝鮮語の出来の方がよくて、自分には朝鮮語が向いていると思いました。さらに当時、大学には韓国の留学生が多く、一緒に遊んだり、話したりと関わる場面が多く、その頃から、自分が関わるフィールドを韓国にすることを決めました。

 

--私は将来、国際協力の場で働きたいのですが、興味のあるところが多すぎて、自分のフィールドを決めるのがすごく難しく、悩んでいます。アドバイス頂けますか。

 

中国語や英語ができたらあらゆる仕事に役立つだろうと分かっていましたが、英語はとても苦手でしたし、中国語より朝鮮語のほうが得意でした。すこし、後ろ髪は引かれましたがやはり、朝鮮語を学ぶことにしました。また、私の両親は小売り業で、家庭は経済的に苦しく、留学にいって外国語を学びに行くということは考えられませんでした。ですから、私は日本で会える外国人と関わるしかなかったのです。当時、大学には東南アジア、中国、韓国の留学生が多く、その中でも韓国の留学生たちと仲良くなりました。もし、当時周りにいた留学生が英語圏の人であったとしたら、私のフィールドは変わっていたかもしれませんね。

それから、国際交流のイベントはたくさんあるけれども、ただ、イベント事としてとらえて参加するのはダメだと思いますね。国際交流のイベントに参加しても、結局、外国人と話さない学生を何人も見てきました。また、そうしたイベントで提示される海外の情報というのは、一部分でしかなくて全てではないですからね。国際交流をイベント事としてとらえるのではなく、日常生活にある身近なものだという認識でとらえることが大切ですよ。実際に外国人と関わってみると国民性より個性が強いのがよくわかります。同じ国の人間でもすごく真面目な人もいれば、そうでない人もいます。韓国人というくくりではなく、キムさん、パクさんといった具合にとらえることが大切です。今は、フェイスブックなどを通じて簡単に交流することもできますから、そういったものをうまく利用することもいいと思います。

 

--20歳の時の一番の悩みは何でしたか。

 

仕事があるかどうかということです。愛教大だったので教免をとろうとすればとることもできましたし、教師という仕事は安定的な職業だというのは分かっていたけれども、もし、教師になったら、それは四年間勉強した日本語教育の勉強が無駄になるからそれは嫌だと思いました。日本語教師にやっぱりなりたいと考えました。そこで、日本語教師になって、お金を稼げるようになるためにはどうすれば良いかをいろんな先生にお聞きしに行きました。その結果、日本語教師をやるには大学院に行く必要があるということが分かり、大学院に行くことを決めました。

大学院の受験は一度失敗して、一年浪人していたのですが、そのときに家電量販店でアルバイトをしていました。私は話しが上手いほうだったので、売り上げもけっこういい成績を出せていました。仕事も楽しかったです。それで、店長から就職しないかとお誘いを受けましたが、就職はしませんでした。やはり、大学四年間で学んだことを無駄にするのはもったいないという気持ちが強かったからです。そして、大学院を再度受験し、富山大学大学院の修士課程、広島大学大学院の博士課程で学びました。

 

--人生における20歳の頃の位置づけは何ですか。

 

人生における位置づけというと難しいけれども、二十歳の時にやりたかった仕事を今、しているということは嬉しいことだなと思います。日本語教師になるという夢は以前、働いていた徳島大学や韓国で働いていた時に達成できているのですが、今も愛教大で、そこで働いていたときの様々な経験について日本語教育を学んでいる学生に話すことができたり、韓国と関わりのある仕事ができたりしているので、嬉しいし、ありがたいですね。

 

--最後に座右の銘を教えてください。

 

座右の銘ですね…。座右の銘とは少し違うかもしれませんが、私がよく卒業生に贈る言葉があります。孟子の「源泉混混不舎晝夜 盈科而後進放乎四海」という言葉です。「水はその源からこんこんと湧き出て、昼も夜も休む時がない。その流れは,窪みがあればまずその穴を盈したのち、初めて溢れ出して四海に進む。」つまり、「水が穴を満たしてから初めて進むように,学問の道もよく順序を踏まえて進むことが大事である。」という意味で、切れることのない努力をすることが大切という言葉です。

私の教えている学生には、普段の生活の中で、少し周りを見渡し、周りが話している言葉に耳を傾けるように言っています。なぜなら、そうした些細な会話の中にも日本語を教える時のヒントがたくさんあるからです。普段の生活から地道に切れることなく努力をしていくことが大切だと思います。